1931年に大阪府の芦屋に生まれた山下氏は、戦時中に陸軍のグライダーの滑空士の養成所に入り、三等滑空士の免状を得た後、阪神大空襲で被災する。芦屋高校を卒業後、早稲田大学へ進学。特技であったラグビーをけがで断念してから、電通のアルバイトを経験。「この会社(電通)は面白そうだな、俺の性に合ってるな」と感じ、全日空のパイロットと迷った結果、電通を選び、1954年に入社。
大阪関西支社のラジオ・テレビ局に配属され、ニッポン放送や日本短波放送を担当。次にテレビ一部でキー局を担当。プロ野球のナイター中継を始めた。「時間取り」での最大のライバルは東京電通だったと言う。仕事の決め手は「人間関係とか、今もう一つ絶対に必要なのがスピード。だからその辺の新しい引力関係の綾を自分で何とか作り上げていかなきゃいけない、こういう仕事が多かった」。大阪万博では開会式、閉会式を民放で一本化して全国中継し、買い切りでスポンサーをつけた。役員になった後、1985年の御巣鷹山飛行機事故では、遭難者家族の対応が、人との繋がりという点で記憶に残るという。「組織の中にコミュニケーションの渦がしょっちゅう渦巻いているとか、あるいはプロデュース能力がたくさんあるとか、あるいはプランニング能力・クリエイティブ能力があるとか、そういうものが大きく渦巻いているようなパワーを持っている組織は、マニュアルが通用しない時にでも対応できるわけよ」。
1991年に専務兼関西支社長に就任、1995年の阪神淡路大震災では、社員の安否確認などに奔走。兵庫県知事の依頼で「神戸ルミナリエ」のアイデアを出し、実践。それにより「大阪広告協会賞」、そして2000年に「日本宣伝賞」を受賞。2001年に大阪国際会議場の社長となり、オーパンバルの成人式などの企画を推進した。2008年には堺市文化振興財団理事長に就任。関西経済同友会の「魅力ある関西委員会」も並行して務める。
日本の閉塞感を打破するには、新しい目標設定が必要だという。「やっぱり何か具体的にやっていかなきゃな。…だけど人生の折々に心に残る事がないとね。…それが人間の豊かさだと。そういう人間が多くなれば国が良くなると…僕は若い連中に言うんだけど、君らは何も会社のためだとか、…そんなん止めてくれよと。全部自分のためよと。大変な大きな資産を君らは作っているんだから。結果としてそれが組織のためにプラスになればいいじゃないか」夢が湧くための「一番の肥やしは感動と興奮」と山下氏は語った。
インタビュワー主担当:澤田大貴 副担当:大森崇司