冨増惠一郎氏は1937年に京都で生まれる。高校時代は映画にはまり、一浪の末入学した関西大学でも映画漬けの毎日を送る。関西大学では文学部英文学科から法学部に転じた。映画界入りを目指していたが、これからはテレビの時代だと思い、テレビに関われると聞いて、1960年萬年社に入社する。
当初はラジオ・テレビ制作部を希望していたが、仕事のリーダーシップを握るのは営業であると思い、以来営業一本の仕事人生を歩む。電波営業に配属され、入社一年後には、ふとん袋のメーカーなどの担当として独り立ちした。スタジオ生番組が多かった当時のテレビ放送で「圧巻は年末年始の特別番組の売れ残り処理でした」と当時を振り返る。媒体部が集めた売れ残り番組を持って、社長と膝詰セールスをした。「そのスポンサー社長は、昔から船場商人が使っていた大きなソロバンを前に置いて、ソロバンでの料金交渉です…。口頭で交渉せずにソロバンの球を弾いて料金折衝すると言う、船場商人独特の取引交渉でした」サンスター歯磨担当を経て、日清食品担当を20年間務める。1962年には「日清オリンピックショー・地上最大のクイズ」、65年「日清ちびっこのどじまん」、また72年からは低迷していた「ヤングOH!OH!」をプロデュースし、テレビ史上に残る人気番組とした。
1971年には「カップヌードル」の発売キャンペーンを実施。銀座歩行者天国で「カップヌードル」の試食販売を成功させた。また「出前一丁」や「日清焼きそばU.F.O」などの現在も人気が続く商品のパッケージデザインの企画、広告キャンペーンを行った。日清食品が他の広告会社と競合に入ると、「『守りに入るな攻めに徹しろ』と激を飛ばしました」と氏は当時を述懐する。86年に大阪本部第一営業局長、89年に東京本部媒体局長などを経て95年に萬年社を退職。
広告費が減少する中で「消費者の変化を素早く捉えて、変わりゆく効果的な媒体を確保する事が生き残り、飛躍する代理店になるのではないでしょうか」と氏は述べた。
インタビュワー主担当:木村光寿 副担当:斎藤雄志