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シリーズ・広告人インタビュー2012 <第15回>高木眞氏

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 高木眞氏は1924年京都生まれ。祖父は萬年社の創業者である高木貞衛氏で、「非常に厳しい感じの人」であったという。父は東京大学教授、東京女子大学学長を歴任した高木貞二氏。1943年10月に東京大学に入学したが、1945年に満州に出兵し、終戦と同時に捕虜となる。一年半後に帰国。東京大学を卒業後、東京支社の再開とともに、1949年に萬年社に入社した。

 入社後半年は媒体部で仕事をし、営業に移ってからは「どんな人でもできないくらいの業績を残してきた」と語り、自らの業績の数々を「サクセスストーリー」と称する。東京では「品質本位」というコンセプトによるキリンビール、世紀の一戦のプロレスの映画にスポンサーとしてアサヒビールなどを獲得し、大阪に移ってからは企画調査部長と外国部長を兼任し、松下電器の海外広告を獲得した。1961年にアメリカに業界視察へ行き、DDB社との提携を実現させ、ポラロイドカメラの全ての広告を手掛けた。1963年に萬年社の外国部が独立し、萬年社国際広告株式会社(後の万年社インターナショナル)となり、後に社長に就任。かつらの「フォンテーヌ」やシンガポールの観光キャンペーンなど、多くの海外の案件を手掛け、2002年まで現役として活躍した。

 1999年の萬年社の倒産については、「その時は、…万年インターの社員をなんとか守らなきゃっていう、そういうことばかりで。でも、確かに戦前の萬年社は偉大だね。ただ悲しきかな、戦後はね。」「萬年社は戦後、支店と関連会社13か所あったが、万年インターとあと一社だけが黒字で、…それで自社ビルを売っちゃった。…しかも、戦後は戦前の夢を捨てられないし、悲しいなっていう気持ち」と語った。マス・メディアの変化に従い、広告代理店も変化するが、「基本的にはクリエイティビティが必要」と語った。

   インタビュワー
主担当:近藤雅典 副担当:山越園子 

ゼミジャーナル vol.2

ゼミジャーナル vol.1

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