東京大学法学部を卒業後、東大新聞研究所を経て、1953年に日本経済新聞社に入社。入社後は工業部に配属、ニューヨーク特派員、経済部のデスクを務めた後、1969年『日経ビジネス』創刊に携わる。1980年にデータバンク局長、総合情報担当兼社長室長、専務取締役に就任。1988年リクルート事件により日経新聞社を離れ、テレビ東京の代表取締役社長を務めた。 なんとなくナンバースクールに入り、「自然に」東大に入ったうえ、目当てのゼミに入れなかったため新聞研究所に入ったという杉野氏だが、日経新聞社に入ったのも「支局に行かなくて済むから」という理由だった、と笑う。だが、現在まで続く『日経ビジネス』の創刊や、日経電子版の元となるデータバンクの設立など、日経新聞に関する重要な局面に携わってきた。「新しいものを作る時私が呼び出されるんですよ」とのこと。杉野氏曰く、「『日経ビジネス』の頃が一番楽しかった」。アメリカの金本位制離脱の際、「円は動く」と銘打って発行した『日経ビジネス』は、新聞よりも円の流動性を早く伝えたのではないか、という。 ニューヨーク特派員時代は金利平衡税の取材に苦労した。経済部のデスクも経験し、デスクは「直接新聞を作るから楽しい」という。当時はリミットとなる一時降板協定がなく、夜明けまで新聞を作ることもあった。また、活版印刷であった頃の新聞作りを知っており、肉体的にもつらく、労働組合の不満の種であったという。そんな時代に、コンピュータでの新聞制作を始めたのも『日経新聞』であった。 話は現代日本の有り様や記者クラブ、メディア論などにも及び、これからのテレビについて尋ねると「多様な人に色んな考え方を伝えていく方法を考えるべきじゃないでしょうかね。それは日本というか世界中が良くなるために。だからどうやって多様性を保つか、どうやって電波力を持つか、伝播していくかというね。どう伝えていく力を持つかということは、もっとやっぱり真剣に考えなければいかんですね。」との答えが返ってきた。 インタビュワー主担当:大槻万梨子 副担当:田中謙一