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シリーズ・放送人インタビュー2011 <第11回>志甫溥氏

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 志甫溥氏は、1958年ラジオ東京(現TBS)へ入社した。入社後は、報道番組のADとしてインタビューやドキュメンタリー制作に携わる。だが、「自分は何もADで新しいことを作ることはできませんでした」と語るように、独り立ちできないまま、取材記者へ異動する。外務省記者クラブと自民党クラブ、田中角栄氏の担当となる。取材では「とっておきの特ダネ、本当の意味での特ダネはくれないけれどもちゃんと教えてくれるんだよ、正しいことを。そういう関係になることが僕は非常に必要だと思っていた」。当時TBSの記者は少人数だったため、事件がいくつか同時に発生したときには悔しい思いをしたという。また記者クラブでは「放送は極端に蔑視された」という。新聞社でがっちり固めたコミュニティーである記者クラブに恨みはあるが、その存在に対しては肯定する。ただ「ネットの情報伝達の即時性や、情報の受け手との相互性が発達してくると、記者クラブ制度がどうなるか、という時代」だという。

 1976年には編成課課長として、テレビ番組全ての予算に関する最終決定権限を持つ。当時は「8時だよ、全員集合」や「クイズダービー」が人気を博し、TBSの絶頂期であった。一方、1987年報道局長への就任は「最悪だった」という。テレビ朝日「ニュースステーション」の成功によって、「夜10時からのドラマなんか軒並み影響を受けたから、それに報道番組をぶつけようっていうふうにTBSの偉い人たちが考えたようですが、組織としてもそんなこと絶対できないってほとんどの報道局員は反対して、暴動寸前になったりしたんだよね」。

2011年にはTBS開局60周年を迎え、「やっぱり今いろんな意味で業績が悪いということがとても気がかりです」と心境を明かす。「新聞と放送の連携の強化やソーシャルメディアとの融合、その他さまざまなことが試みられ、新たな優れたメディアができるかもしれませんし、衰退を余儀なくされるところもできるだろう」、特にテレビに対しては「民間放送が広告だけを収入源として放送を出している」ことに懸念を示す。

 インタビュワー
主担当:湊沙織 副担当:田中謙一 

ゼミジャーナル vol.2

ゼミジャーナル vol.1

シリーズ・記者インタビュー2010

シリーズ・放送人インタビュー2011