1917年に富山県に生まれた国枝氏は高岡高等商業学校(以下、高岡高商)から九州帝国大学に進学し、社会学を専攻した。新聞社へ進む学生が多い中、高岡高商時代から胸を患っていたこともあり、自身の体調も考慮して1944年にNHKに入社した。入社当時は戦時中で、東亜部に所属し東南アジア向けの放送に携わっていた。戦後はGHQの指導下で、労働組合では宣伝部長を務めながら、1946年の日本新聞通信放送労働組合による放送ストライキに参加した。その結果、文化研究所という現場から離れた場所に左遷されてしまった。 1950年、GHQによるレッドパージで、労働組合活動に参加していた国枝氏も例外なくレッドパージの対象となり、NHKから解雇された。しかし、国枝氏は「ああ来たか」という程度で、そこまで深刻に受け 止めずにその時の事件としては非常に小さかったと言う。その後、アルバイトなどを通じて生計を立てていた国枝氏は1952年、小嶋源作氏の紹介を受けて中部日本放送に入社した。中部日本放送では「三ツ輪石 鹸」などのスポンサーへの営業部を経て報道部へ移り、東京支社を経てキャリアアップを重ねる。その過程で放送会社の東京支社を募って「火曜会」という組織を立ち上げ、「録音風物詩」という番組を通じて全国的なラジオネットワークを形成した。1975年中部日本放送社長に就任、1988年に相談役となるまで民間放送の発展に尽力した。 近年のBS放送や地上デジタル化についても語り、インターネットによるメディア激動期については、デジタル化時代においても新聞などでの広告収入が落ちている中で「インターネットがテレビに取って変われるかと言えば、とうてい取って変わらない」、「テレビがインターネットの上にいることは変わらない」と語った。最後には「民放における「倫理」と「論理」を考える必要がある。それはどんな仕事に就いても変わらない」と語った。 インタビュワー主担当:所隼之介 副担当:金沢智