小宮山恵三郎氏は1934年、北海道生まれ。戦争を函館近郊の七飯で経験した。戦後、東京教育大学(現在の筑波大学)文学部で哲学を専攻。学業優秀で、本が好きだった事から当時神保町にあった博報堂を選び、1957年に入社。
正式入社より前から研修を受け、テレビ・ラジオ部に配属。営業として花王石鹸や呉羽化学などの他、外資系の得意先も担当するとともに制作審議室でAE制の導入に携わる。その実績から、媒体部へ異動となり組織改革を任され、視聴率などのデータ開発も行う。人事を一年経験した後、媒体企画を扱う第二本部へ移り、日本マクドナルドの広告計画を担当。また、1970年代頃からは「社会的テーマがどんどん広告の、むしろ主流になった」と言うほど重要な問題になっていた公害問題や企業の社会的責任についても取り組むようになる。福井事件の後に社長室に入り博報堂のイメージ回復に貢献する。近藤社長の下で制度改革に携わり、さらに営業統合室での中国プロジェクトで活躍した。1980年代からはメディア開発に移り、キャプテンシステムの開発に関係し、ニューメディアを構想した。
一方、非常勤講師として筑波大学などで講義を持ち、1994年に監査室長を勤め上げ、博報堂を退職した後に茨城大学で広告、広報コミュニケーション論を教える。その後も多くの大学で教壇に立った。
博報堂が生み出したJリーグは「広告業界のノーベル賞だと思う」と言い、「情熱で無から有を生じさせた。そういう面も広告会社にはあるんだね。それは博報堂のDNAとして意識してもらいたい」と語った。「何かを問題化して可能性を見つけだして、それで働きかければ何かが生まれる」それが広告業の力であり、企画性こそが広告会社の役割だと氏は述べた。
インタビュワー主担当:斎藤雄志 副担当:上野愛実