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シリーズ・広告人インタビュー2012 <第6回>笠原恭穂氏

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 笠原恭穂氏は昭和9年に兵庫県の尼崎で生まれる。小学四年の時に兵庫県の三田に疎開。終戦後は灘中学・灘高校で学び野球に熱中した。昭和29年に早稲田大学法学部に入学。もともと新聞記者志望だったが学科試験で落とされて、たまたま求人広告で見た萬年社を受けて昭和34年に入社。

 最初の仕事は、案内広告の営業。飛び込み営業でタクシー会社や洋服屋など多くの契約を取る事に成功した。「お前は気性が激しいから組合だけはするな」と先輩に言われていたが、入社三年目に会社の経営に意見をしたいと労働組合役員選挙に立候補して当選。学歴や性別による給与待遇に疑問を抱き、「青年行動隊」「女子部隊」と呼ばれる組織を作った。しかし、萬年社の状態はその頃から「広告本職の方の他社との競合になってくると、なかなか差が広がっていくばかりだった。」「知的分野をもっと取り入れるような運動をすべきだった。」と語る。

 印象に残っている仕事としては、新規に取った扶桑薬品工業。社員募集の広告から始めて、痔の薬「ヘモリンド」のテレビ広告を任されるまでになった。また、女性用かつら「フォンテーヌ」の仕事ではモデルの女性を丸坊主にするというアイディアで電通・博報堂に勝った。昭和45年に営業部長に就任し、その後、平成6年に萬年社社長に就任するまで、常に現場を大切にし、営業の最前線で活躍した。

 萬年社の倒産については、「百年以上の歴史と良いお得意さんに恵まれていた会社であった…経営が甘かったために最悪の事態を招いてしまった。」「僕も倒産という響きには非常に自分の責任の一端というのは感じるんですけれども、残念だったなぁ、と。もう少しやる道はあったんじゃないかな」と述べた。

   インタビュワー
主担当:仲村涼 副担当:竹重翔馬  

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