1927年福島県郡山市生まれの影山芙紀子氏は、戦時中を東京で過ごした。防空壕と工場のミシンとの往復の日々を送り、桜蔭高等女学校を卒業、終戦を迎える。1952年に父親の紹介で婦人生活社に入社。当時の社長から「取材に行くなら鼻を濡らせ」などの教えを受けながら、『婦人生活』の編集者として企画から原稿、撮影の立ち会いまで、すべてを担当した。1955年からはラジオ局ニッポン放送で勤務。文化教養部のディレクターとして、デンスケ(録音機)を背負い、数々の著名人にインタビューを行なう。
1960年新聞の求人広告がきっかけで、コピーライターに魅力を感じ、萬年社に入社。それまでの経験も活き、数多くの企業を担当。「忙しければ忙しいほど、楽しかったです。…何もかも勉強でした。」自らの「ふるさと」である萬年社は「仕事大好き人間の集団」と振り返る。「徹夜作業なんて、しょっちゅうでした。あの頃はコンビニなんてないですから…チャルメラが聞こえると誰かが『来たぞ〜』って窓に飛びついて…窓からカゴを降ろして…私たちは同じ釜のラーメンをすすった戦友だったんです。」その後、1969年にオリオン社へ。クリエイティブ・ディレクターとして広告制作の責任を一手に負う。1971年からはキタ・パブリシティーに移り、取締役・制作本部長として広告制作の統括を行ない、フレックスタイムを進言、「鉄腕アトム」のあだ名を頂戴するぐらい夜昼なしに働いた。1974年からはフリーとなる。本人は「ここいらでのんびり遊ぼうと思った」が、その夢は叶わず、多忙な日々を送る。中外製薬と専属契約を結び、同社の「バルサン」のテレビCMで全日本CM協議会秀作賞を受賞。「お邪魔虫」のフレーズは流行語となる。
現在は、広告づくりにおけるコミュニケーションの不足によって、広告が面白くなくなってきたと感じている。「コピーというのは、相手あってこそ…。いくら呼びかけても、言葉に込めた心を感じてもらえなければ、どうしようもない。広告づくりにしても、『人間らしく』ない。コピーライターとデザイナー、時には社長も仲間に入って、侃々諤々、一つの広告を創りあげる…なんてこと、考えられない時代ですもの。」
インタビュワー主担当:三ヶ野原晴香 副担当:宮野翔平