1931年に東京で生まれた石川周三氏は、小学・中学時代に大阪で、戦争を体験。終戦の日に玉音放送を聞き、涙を流したという。東京で高校を卒業後、東京大学文学部英文学科に入学。民間放送に興味を抱き、1955年に電通に入社する。当時、「企業の中には、『押し売り・広告強要は110番へ』みたいな張り紙がしてあったりした。」という。ラジオ・テレビ局のテレビ営業部に配属。輸入映画に広告主を付けてテレビ放送するという仕事を開拓、放送局とよく喧嘩していたという。
入社二年目の1957年に、専務と一緒にアメリカとヨーロッパの会議に出席。翌年には、第一回アジア広告会議の開催に携わった。1960年に国際広告局へ異動し、国内英字紙を担当した後、ニューヨーク支局に転勤。翌1963年に敬愛していた吉田社長が亡くなる。その後、ロサンゼルスで営業所を開拓。「これは胃潰瘍になるまで仕事した。」米国の独立二百周年記念事業では、全米主要紙に日本から祝意として日曜付録を付けるという企画で、「散々苦労しましたが、最終的には成功し、アメリカ政府から感謝状を貰った。」1985年に取締役に就任。
広告業の役割は、受け手と送り手の認識の差の問題にあるという。広告業界も人間をマスで捉える事は必要だが、一人ひとりを個人で捉える見方もしなければならない。「僕はやりたい放題やってきたけど、どの業界でもこれでいいのかってのは、時々考える必要がある。」そして、「電通という会社は吉田秀雄の会社ですよ。」電通については、これからも吉田秀雄の精神を引き継いで欲しいと語った。
インタビュワー主担当:鶴田知己 副担当:佐藤峻一