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シリーズ・広告人インタビュー2012 <第14回>飯田尚武氏

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 1937年東京生まれの飯田尚武氏は、戦時中は疎開先の滋賀県大津で過ごした。父が職業軍人であったため、「戦争というものが普通の人よりも生活に近かった」という。東京都立戸山高等学校を卒業後、早稲田大学第一文学部仏文科に進学する。その後、毎日新聞社への就職が決まったが、高校時代に患った肺病の傷を理由に断られ、知り合いの紹介で出版社に入社した。そこで二年半働き、直木賞を受賞した山口瞳氏の『江分利満氏の優雅な生活』などを担当した。

 1963年に出版社で知り合った博報堂の人から誘われ、「創造性が欠けているんじゃないかと、自分で反省していたということ、それからプロセスを楽しめない性質であること」という理由で、博報堂に入社。「広告行為そのものじゃなくて、企業の良いイメージをメディアの報道や記事の中に正しく反映していく仕事」を担当するPR部門に勤務。PRの黎明期から活躍し、様々なスポンサー企業の広報を手伝った。1985年の日本航空123便墜落事故での広報や、1989年の昭和天皇崩御の際に広告会社がどのように広告行為を自粛するべきかというマニュアル作りを担当した。1960年代半ばには、広報に対する企業側の認識は低かったが、公害問題などを契機に、広報の必要性は注目されるようになったという。「企業が全体のコミュニケーションを考えてしゃべらなくちゃいけない。今までは黙っていい製品作って、営業マンが売っていればよかったのが、それを知らせていかなくちゃいけないという時代です。質のいい物を安く安定的に供給するだけでは不十分で、社会的責任を果たさなければならない。それは結局、宣伝をして、商品広告を出して売っていればいいってことでは不十分になったんです。もっと企業全体の活動を知ってもらう必要がある。そうすると広報の領域は広がってくる。」PR部門一筋で働き、1991年広報室長となり、2001年に退社。

 現代の広報については、「大変だと思いますよ。関係会社が増えちゃったから。同業のグループ会社の名誉についても考えなければならない…作業のやり方からオペレーションを説明しなければいけない。…そうすると広報業務というのは広告会社に限らず、非常に複雑なサーカス仕事になっていますね」と語った。

   インタビュワー
主担当:近藤雅典 副担当:仲村涼  

ゼミジャーナル vol.2

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