1933年に朝鮮の京城で生まれた江頭清昌氏は、終戦後11歳の頃に佐賀県の小城町に引き揚げた後、高校二年生の時に上京し、「ネフローゼ」という難病にかかるが奇跡的に完治。元来、映画監督になるのが夢だったが、商人である父親の意向により文学部進学を断念、立教大学経済学部へ進学、経営学を専攻。在学中にタイプ屋を始め、学生時代から商売を経験する一方、毎日新聞社の『英文毎日』の赤伝(広告外交)を勤め、その関わりから、卒業後の1956年に萬年社の東京支社に就職した。
入社後は営業部に配属され、厳しい歩合制の中で、江頭氏は銀座の街を一軒一軒回り「毎日名刺を200枚使う」という営業スタイルによって営業トップの座を獲得する。パレスホテルや台湾のアンバーサダーホテルをはじめとするホテルのオープンのプロデュースに関わったり、「日本の釣り」というテレビ番組を制作したり、“だっこちゃん”の販売に手腕をふるったりした。1963年の経営改革のストライキでは歩合制廃止の問題もあって本人が総指揮を取ったりもした。
1967年、結婚に際して選択を迫られ、萬年社を辞めて34歳の時に八百屋の家業を継いでからも「産地直売」の方法を編み出すなど、70歳で現役を退くまで社長として自ら経営を行なった。「俺は、基本的には人を大切にするっていうのが、モットーなんだよ」と語る江頭氏。「平成維新の会」の代表に就任したり、そこから派生した「生活者主権の会」の会長を務めたり、あるいは「平八会」という会を作ってみたりと、人との関わりを積極的に取ることを現在でも続けているという。広告業の最前線である営業で活躍してきた江頭氏は萬年社で仕事をしてきた時代を「失敗しても怖いもの知らずのわが青春」と振り返った。
インタビュワー主担当:大森崇司 副担当:中山恵理