幼少時戦争を体験し、戦後の民主主義教育を受ける。そうした中で政治への関心を深めた。法政大学へ入学。藤田省三や松下圭一のもとで政治学を学ぶ。図書館で懸賞募集を見つけ、その後様々な懸賞で入選し文章を書くことに自信を持ったのをきっかけに、新聞記者を志すようになる。 昭和37年に日本経済新聞社に入社。まず配属された社会部において、誰にでもわかるように、限られた行数で、限られた時間の中で書くという、学生時代の論文とは異なった新聞記者としての文章の基礎訓練を積む。人生に大きな影響を与えた経験として幼少時の疎開の経験があり、ムラ社会の閉鎖性が体質的に嫌いで、派閥政治や派閥記者に反発する一因となった。また学生時代に高いレベルで政治学を学んだことなどにより、旧態依然とした政治取材には躊躇する部分があったという。 5年後に政治部に異動、昭和52年から22年もの間政治コラム「風見鶏」を担当する。派閥政治を追いかけるだけの単なる政界ものにとどまらず、政治と社会をブリッジし、政治記事を近代化することを目指していた。 こうした実績もあって、法政大学や学習院大学などで15年余にわたり教鞭をとった。昭和63年からは編集委員に加えて論説を兼任し、編集局と論説委員会という別組織の長所を持ち寄るという、当時としては画期的な試みをした。断片的な情報を示すだけではなく、問題点を指摘し解決策を提示するという、意見を持った攻める論説を目指していた。 「新聞全体を見る機会があったってことはよかったですね。やはり有難いことですね。非常にのびのびとできて、政治っていうある意味じゃ価値判断の難しいものを任せてもらえたという感じね、それが良かったかな」。 新聞記者は常に冒険者であり、好奇心を持っていなければならないという。「おかしいと思ったり面白いと思ったり、時には手をたたいたり、悔し涙したり、そういうものがないと、それがエンジンになっていかないとダメだよね」。 インタビュワー主担当:竹原雪乃 副担当:三浦翔