昭和8年に上海で生まれ、その後第二次世界大戦が始まるまでの間パリに在住していた。これは横浜正金銀行に勤めていた父の仕事の関係だったが、こうした当時としては非常に珍しい経験を持つ。東京大学文学部では西洋史を専攻。幼少時代の海外経験や、敬虔なクリスチャンだった父の影響などもあって、戦後日本の近代化、すなわちヨーロッパ化には肯定的な考えを持っていた。 昭和34年に毎日新聞社に入社。入社して間もないころ、記者になって最初の忘れられない体験をする。映画『裏窓』をまねて、他社の新人たちと望遠鏡をのぞいて面白がっていたことを、朝日新聞の記者に《プライバシーの侵害》という視点から抜かれたことである。この事件をきっかけに、どのような普通の景色でも多様な見方・切り方ができるのだと気付いたという。「そういう見方をして記事をつくるというのは、一番必要な要素だと思う。」 ワシントン特派員を経て、政治部では派閥全盛の時代に記者生活を送る。派閥の異なる多くの政治家に張り付く中では、彼らの「人間的な機微」という部分を垣間見ることがあったという。 東京本社政治部長、論説委員長、編集局長を歴任し、平成10年には代表取締役社長に就任。経営者として6年間にわたり毎日新聞社の指揮を執った。経営的な面と社員の士気との両立に配慮し、地方にも足を運んだ。社員の生命を守らなければならない場面も経験した。 新聞記者の良いところは「性善説に照れてる、それでなおかつ性善説」であることだという。記者は実力があってもそれを自己主張せず、照れ屋である。外面は飾っていないけれど、人間の様々な面をすくい上げていることが記者の魅力につながる。 パースペクティブな見方で歴史の橋渡しをしていくことが、ジャーナリズムの大事なところだという。「ずっと広がってる平原の端っこから全体をみる気風というか、それがこれからのジャーナリズムを支えていく大きな要素だと思うんですよ。」「ジャーナリズムの世界っていうのは、細かいことも言うんだけれども、大きく捉えていくっていうね…その大きく捉えていくっていうのは、気品だろうと思う。」 点だけを書くのではなく、全体的展望で線や面が見えるように書く、これは「転換期の安保」などの続きものに表れている。「歴史的複合的な見方をするということが、将来の動きを報道できる新聞になるわけだよね。」 ジャーナリスト、またジャーナリズムに足りないものは、「自分に対する懐疑」だと考えている。「同時に国を想い、世界を想い、人類を想う。」(夫人)ことを常に自分に問いかけ、自己懐疑を重ねる、そういったことが今必要とされている。 インタビュワー主担当:竹原雪乃 副担当:上條彩