文化部の記者を志し、早稲田大学第一文学部を卒業して、1960年に東京新聞社へ入社。新人時代の警察回りは、どうしても好きになれなかったという。 1961年、本社へ戻り、政治部配属となる。派閥全盛の時代、政治家の懐にいかに食い込むかが記者の腕の見せ所だった。 「政治の権力闘争の取材というか、派閥の取材っていうのが、ある意味じゃ一番面白かったかもしれないね。これは新聞記者っていうよりも、みんな派閥担当集団になっちゃうんだよ。」派閥の違う同じ社の記者とは情報交換せず、同じ派閥の他社の記者とは情報交換する。そのような時代だった。 このような経験から、後輩記者には「離見の見」を説く。 「演じているばっかりだと、夢中になってそっちに行っちゃうけど、それを冷静にみて、それはそういう踊り方でいいのかとか、そういう演じ方でいいのかということを冷静に見られる目が必要だということ。それがまさに新聞記者に必要なことなんじゃないかなって思います。」 今後の「東京新聞」のあり方について、「ローカルなニュース、東京なら東京、名古屋なら名古屋っていうものを足場にしていくことで、生き残っていくことができるだろうと思っている。」という。これに加えて、「アカデミック・ジャーナリズム、あるいはジャーナリスティック・アカデミズムそういうものを目指したいなと、僕個人としては考えています。」という。 その理由には、現在の記者に対する歯がゆさがある。 「特オチを恐れるっていうか、共通性も悪くはないんだけど、それから出られないっていうところが、今の記者の限界っていうのか、もうちょっと独自の取材をしなければいけないんじゃないかって思う。」 ジャーナリストを志す者へ。 「基本は、マスコミュニケーションはどういうことかっていうことなんだよね。それは、コミュニケーションっていうのは、物を運ぶ手段ではなくて、心を運ぶ手段だということが大事なんだよね。」インタビュワー主担当:加藤寛貴 副担当:竹内優人