1938年に東京で生まれた塚田博康氏は、1944年に疎開した茨城で敗戦前後を過ごした。同地の国民学校では猛烈ないじめや錬成道場を経験し、その記憶は今なお鮮明である。1949年に帰京して後は、家庭の影響もあって下町文化に身を浸した。関心は映画や芝居に向かい、本も好んで世界文学から手塚マンガまで読むのに忙しかった。一方で、勉強の出来る兄の影と大学受験を避けて早稲田大学高等学院に入学し、籍を置いた歴史研究部で大学生や大学教員と交流するうちに、近世初期への興味が湧いたと言う。早大第一文学部へ進学し、歴研以来の疑問を庭園研究から纏め上げた卒論によって、1961年の卒業時に小野梓記念学術賞を受けた。同年、『東京新聞』に入社。社会部へ配属され、40年に渡る社会部記者のキャリアをスタートした。
駆け出し時代はサツ回りや区回りで社会の裏を見聞きし、田中義郎キャップ等の指導に学んで記事を書く。社会の推移に伴って取材対象も環境、福祉・医療、教育と変わった。1967年、選挙を手伝う形がそのまま都政担当となって以降、一貫して都政に取材する。その過程で光化学スモッグ等といった新しいタイプの公害に出会い、科学ジャーナリズムへと接近した。社会部次長としては1991年に『2001年の東京』を、論説委員(都市問題担当)として2002年には『東京都の肖像:歴代知事は何を残したか』を出版、全ての仕事は東京なる都市の問題へ結び付いていたと振り返る。「なぜ?」と言う裏読みの発想を鍛えると同時に、常に最先端の情報機器を真っ先に利用し、都市問題の裏に横たわる情報という観点の重要性を論じた。
退社後は都市・情報研究室を主宰し、早稲田大学や慶應大学でも教鞭をとる。2013年現在、文学部出身者が理工学部で講義する文理横断的な様を「鳥なき里の蝙蝠」に譬え、記者の発想と研究室の地平は続いているという。
フランス革命からネット時代の秘密保護法まで「ジャーナリズムというのは18世紀も今も大して変わりはしないんだ」。なぜなら「本来のジャーナリズムというのは、権力というものとどう向き合っていくかだから。…権力というものが好き勝手やろうとするのをどれ位抑えられるか」というのが基本だからだと説き、情報量が膨張した現代社会ではインフォメーション・リテラシーが要求されると述べた。
インタビュワー主担当:谷川舜 副担当:河口善優