田辺功氏は1944年に神奈川県横浜市で生まれた。翌年に富山県に疎開し、そこで高校卒業までを過ごす。宇宙について勉強がしたいとの思いから東京大学工学部航空学科に進学。しかし希望の宇宙コースへ進むことができず、これをきっかけに新聞記者を志すようになる。一度は入社試験に落ちてしまったが、新聞記者への道を諦めず、一年留年した後、1968年に朝日新聞社に入社した。 入社後はまず岡山支局で二年間、奈良支局で三年間を過ごした。新人の頃は、警察回りをしながら他新聞社の記者の動きを見て、取材のノウハウを身に着けた。医療ジャーナリストとしてのキャリアは岡山支局時代から始まっている。スモン、水島工場地帯、未熟児など科学に広く関連した記事を中心に担当し、そこから医療問題へと自分の専門を徐々に絞っていった。大阪本社学芸部では科学記事を担当し、特に医療を担当した。 1976年に東京本社科学部に異動、医療担当キャップとなった。社内では医療問題への関心が低かったという背景があり、「好き勝手で自由にやってきたんです」と、当時の仕事を振り返る。1985年に大阪本社科学部次長に就任し、東京の科学面とは異なる地方にとって重要性の高い紙面づくりのために尽力した。1990年から2008年まで、東京本社で編集委員として医学医療記事を担当した。「ふしぎの国の医療」に代表される連載記事の中で、日本の医療が抱える問題点や矛盾点について言及した。2008年に朝日新聞社を退社し、同年から株式会社ココノッツ取締役特別顧問に就任。フリーの医療ジャーナリストとして活動をしている。 医療ジャーナリズムに必要な事は患者のためになる報道であるが、チェック機能を充分果たしていないと厳しく指摘した。非科学的な医療現場と、それを科学的に検証できない報道に問題があるという。戦後の科学ジャーナリズムについては、「科学報道は、解説主義か改革主義かという問題があるんですよ。解説主義としての医療報道、科学報道は確かに進歩したかなという風に思います。しかし本当に科学というものをきちっとしていくためのジャーナリズムというのが本当に育っているかというのは、はっきり言って疑問だ」と語った。 インタビュワー主担当:小俣智史、副担当:南村雄也