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シリーズ・科学ジャーナリストインタビュー2013 <第3回>田村和子氏

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 田村氏は1940年に東京都で生まれ、1944年に福島県へ疎開した。終戦後に東京に戻り、小学校へ入学。校舎が焼けた中でも理科教育に熱心であった校長先生に感化され、植物や生き物を好きになる。その後お茶の水女子大学へ進学し、教育心理学を学んだ。連日安保反対デモが行われ、世の中が騒然としていた時代。マスコミは「体制の外側から国内外の大きな動きを早く見ることが出来る」と思い、オリンピックの取材のための女性記者を募集していた共同通信社を受け、1962年に入社した。

 入社して三ヶ月は社会部で毎日、電話での原稿取りをした後、文化部に配属され、初仕事は東京オリンピックでの記事の運び人。その後、家庭・学芸・放送芸能欄を担当した。1967年に科学部へ異動。「巨大科学の方は男性に任せて」独自ダネを狙って臓器移植や公害病の原因研究、国際学会の動向などを追って記事を書いた。1981年に科学部デスクになってからも変わらず取材を続け、1982年には利根川進氏の研究論文を、翌年には東海地震説の全容を日本で一番最初に報道。「忙しくても面白くて、仕事が〝嫌だ″と思ったことは一日もなかった」と振り返る。1989年に科学部長になると同時に論説委員に。それまでのオン・ザ・ジョブトレーニングを改め、科学部記者を専門記者として育てるルール作りを行った。論説は、原子力事故、気象災害、臓器移植などの科学分野を担当した。科学の専門知識は独学で勉強したが、「新聞の読者の半分以上が文系だから、文系の記者が分かる様な記事を書かなければ、科学ニュースも一般の人に分からないだろうと考え」記事を書いたという。また、女性部長としては人事で苦労したという。1992年に科学部長を辞め、編集委員兼論説委員になる。2000年に定年退社した後も、2007年まで客員論説委員を務め、一方で、日本科学技術ジャーナリスト会議の理事や、国立大学・研究機関の委員を務めた。

共同通信社が、外国のニュースを速く翻訳して伝えるという事に関して「それなりの成果は上げてきた」と感じる一方で、あらゆる情報がどこにいても瞬時に得られる現在において、その役割の重要性は薄れつつあると考える。これからは企画取材など「どういうニュースをどのように伝えるかという所で負けないようにしないとだめだ」という。また、日本の科学技術振興政策の先が見えない状況で、科学記者がもっと問題に切り込んでゆく責任があると語った。

   インタビュワー
主担当:鵜川真衣 副担当:貴志朋矢  

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