1924年、尾崎正直氏は愛知県豊橋市に一家の長男として生まれた。幼少時代に趣味で鉱石ラジオ、真空管ラジオを製作し、アメリカの短波放送を聞いていた。ラジオ作りの経験から機械作りに興味を持ち、1943年に名古屋大学工学部に進学。就職活動中、たまたま掲示板にあった『朝日新聞』の募集に目が止まり、応募。1949年に『朝日新聞』に入社し、大阪本社に配属される。 社会部で二年間程過ごした後、1955年に東京本社出版局に移り『科学朝日』の編集に携わる。「研究所に行ってルポを書いたり、写真も自分で撮るわけですよ。そんな訓練が『科学朝日』のおかげでできました。」と言う。また当時、湯川秀樹をはじめとする原子力委員の全員にインタビューした事が、原子力報道に関わった最初だったという。 1957年東京本社外報部に転籍してニューヨーク特派員となる。同年九月にソ連スプートニク打ち上げのスクープ。「モスクワの赤い星がいま地球をぐるぐる回っている」という書き出し記事が『朝日新聞』の朝刊一面トップ全段抜きで掲載され、注目を浴びる。 三年半後に帰国し、『朝日ジャーナル』と『週刊朝日』の編集に携わる。この時期は科学とは「全く無縁」で「一般週刊誌的な記事ばかり」であったが、若き日の開高健とも交流した。1966年には東京本社の科学部長に就任。1960年代後半は科学報道が盛り上がりを見せ、「宇宙時代に入って科学記事がうんと増えてきました」。米ソの宇宙開発担当者の対談も企画したが、成立はせず、「やはり国境や機密の壁は崩せなかったですね」。 1970年に北海道本社次長兼部長となり、1972年には出版局に戻り、翌年には『朝日ジャーナル』の編集長を務める。筑紫哲也にウォーターゲート事件の記事を依頼したりもした。1977年から東京本社編集委員となり、1980年には『21世紀への助走:科学技術の未来』を出版。大きな反響を呼び、中国では海賊版が何種類も出るほど読まれた。 1983年に朝日新聞社を退職。1997年には「原子力報道を考える会」を中村政雄氏らと設立。科学問題は社会や経済にも影響を与えるため、それを扱う者は「ジャーナリストとして広く全般を見る眼がなきゃいけない」と考えている。原子力報道については、「特に科学部なんかは、一番原子力の原理も弊害も分かっているんですから、そういったものを公平に報道していくべき」だと語った。 インタビュワー主担当:河口善優、副担当:廣川健之