1944年、横浜市にて岡島成行氏は生まれる。幼少期は瓦礫の山の中でゴロベースをして育ち、中学からはずっと山登り中心で、特に「頭の中ヒマラヤで一杯だった」。上智大学文学部時代は七年間、アンデスやヒマラヤの山を登って回った。東京大学の泉靖一先生の下で、「生まれて初めて勉強する気になった」文化人類学を学ぶために東大入学を決意するも、東大紛争によって阻まれた。仕方なく叔父の勧めで読売新聞社を受ける。 1969年に入社後、前橋支局に配属され、「一通り全部日本の仕組みの縮図を回る」。いくつか特ダネ記事を上げて、東京本社社会部に異動し、警視庁担当となる。「夜討ち朝駆け、休みなし」の毎日を三年間過ごし、ロッキード事件を最後に江東支局へ移る。 1980年に環境庁担当になるが最初は「嫌々やっていた」。しかし、「もしかしたら環境問題というのは、昔やろうとした生態学とか文化人類学とかと相通じるのじゃないかと思うようになった」。そうした思いが、当時環境庁長官となった鯨岡兵輔と合致し、意気投合して環境記者としてやっていくことを決意する。80年代当時は環境記者の受難の時代だったが、『毎日』の原剛氏、『朝日』の石弘之氏と共に環境記者として活躍。 1983年には原文兵衛長官の勧めもあってアメリカに留学し、ワシントン大学客員研究員になる。そこで環境NGOに注目し、帰国後、『アメリカの環境保護運動』という著書を執筆する。1988年には国連環境計画より「グローバル500賞」を受賞。この時一緒に受賞したシコメンデスという人物はアマゾンで暗殺され、環境保護は命がけだという話を地球環境問題の60回連載の冒頭に書いた。 1990年から解説部の次長を務め、1999年に退社。「30年勤めたんだけど、嫌だなとか、今日行きたくないなって日は一日も無かったね。毎日が面白かったよ、30年間」。その後青森大学大学院教授、大妻女子大学教授に就任。今の環境ジャーナリズムについては、「記者の方の迫力が足りないのか、会社全体の認識が足りないのか、その両方かもしれない」と語り、「ジャーナリズムが小さくなっているんですよ。人類のことなんか考えないで、自分の目先のことを追っている。もうちょっと骨のある、自分の考え方にしっかりと立つ記者が増えてほしい」と、不満と今後の期待を述べた。環境教育に携わり、現在も環境哲学、環境思想について勉強中で、「これからやる仕事」と話す。 インタビュワー主担当:河口善優、副担当:竹内航