中村雅美氏は、1946年に、石川県金沢市で生まれた。戦後、日本全体が貧しい中で、食べ物が乏しかった記憶が強く残っていると語る。手に職を付けたいとの思いで、1965年に金沢大学薬学部に進学、1969年には同大学院に進学し、勉強漬けの日々を送る。メーカーも受けるが、世の中を公平にしたいという思いもあって日経新聞社を受けた。 1971年入社後、大阪本社経済部で化学業界の記事を担当する。経済について一から勉強しながら、道修町の薬品業界や食品業界を回って取材した。東京本社科学技術部が設立された翌年の1973年に同部に異動、記者クラブを中心に取材を行った。当時新しい部署だった科学技術部の認知には、社内でも社外でも苦労したと言う。「今では『日経』に科学部があるのは当たり前になってきましたけど、当時は…(東大の先生に)「『日経』にも科学部があるのか」と言われ」た、と当時のエピソードを語った。1980年から二年半程、筑波万博の開催をひかえて筑波分室室長として、筑波支局開設の準備をした。1986年に大阪本社経済部科学技術課長に就任、1990年に次長として東京本社科学部へ戻る。さらに、1993年から1997年までは『日経サイエンス』編集長を務める。編集長時代に、『サイエンティフィック・アメリカン』の日本語版に加え、日本語版オリジナルで論文を掲載するようになった。記事を選び編集する際、新聞とは異なった時間感覚に慣れるまで苦労があったと言う。1997年からは編集委員として医療記事を担当する。2006年に日経新聞社を退職、2007年に江戸川大学教授、2012に同大学特任教授に就任している。 インターネット媒体が発達し、新聞や雑誌が衰退していると言われる昨今において、「人材の供給に関して言いますと、まだまだ新聞は捨てたものではないと私は思います」と、新聞や雑誌が持つ役割について語った。戦後の新聞ジャーナリズムの中で科学部の地位は高まり、科学面も充実してきているが、科学部が各社の知識の宝庫にとどまっているのは問題だと批判する。「科学部が小さな知識だけではなくて、科学的な見方、考え方、つまり仮説を立てて検証する。…仮説が検証の結果、間違っていたといったら、正しい方に軌道修正してもいいではないですか。…そういう意識が広まりつつあるのですが、まだ足りないです。」そして、「科学技術ジャーナリズムが検証を中心に出てきたのは、ここ四、五年です」と述べた。 インタビュワー主担当:小俣智史、副担当: