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シリーズ・科学ジャーナリストインタビュー2013 <第2回>石弘之氏

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 1940年に東京で生まれた石弘之氏は、疎開先の茨城で玉音放送を聞いた。五歳の心に「今日から地下穴に入らなくて済む」嬉しさを覚えている。1946年に帰京し、植物好きの少年であった氏は、高名な植物学者・牧野富太郎氏に幼少ながら師事、大変に可愛がられた経験から、ますます同分野に傾倒していく。東京大学教養学部へ進学したのも植物学者となるためであった。しかし当時DNA発見で分類学が色褪せ、大学紛争の混乱もあって緊急避難的に大学から社会に出る事を決める。就職先は、学科の先輩であった木村繁氏に憧れる形で『朝日新聞』を迷わず志望した。

 大学卒業後の1965年、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局へ配属され、駆け出し記者の必須科目であるサツ回りと高校野球を取材するも特落ちに訂正だらけ。山狩りに同行したはずが、植物に夢中になる内に逆に捜索されていた、という語り草まである。そんな「駄目記者」に転機が訪れたのは、頻発する公害問題の記事や自然界のニュースが求められるようになったからであった。数年で東京本社へ戻り、念願の科学部に配属、科学記者として本格的に歩み出す。公害、宇宙、原子力などがクローズアップされる中で、原発反対派の石氏は原発推進派のベテラン記者たちと議論で衝突した。1979年3月にニューヨーク赴任した十日後に、スリーマイル島原発事故に遭遇。環境意識の高まり、生殖医療の発達についても精力的な報道をする他、国連本部の取材も担当した。約四年後に帰国して、科学部次長に就任。1985年からアフリカ駐在編集委員として二年間UNEP(国連環境計画)に出向し、国連ボーマ賞、グローバル500賞を受賞。帰国後は、1988年に出版した『地球環境報告』を契機にアカデミックな繋がりが増えた事もあって、1994年に朝日新聞社を早期退職。以来、大学教授や駐ザンビア特命全権大使などを歴任した。

30代から「年に一冊の本」を刊行し広範な仕事を続けてきた氏は、「環境ジャーナリストは現状を報告し、隠された事実を掘り起こして、何が起きているのか、あるいは起きてしまったのかという事を報道する事で警告するという本来の使命がある。さらに事実を踏まえて政策として実現するという別の使命がある」と述べ、後者のためにデータを常に示す使命があると語った。現在も警鐘を鳴らし地球規模で疾駆し続ける氏は、「今後の日本、世界、地球は私の生きた70余年よりもはるかに早いスピードで変わるでしょう。それを見たい気もするけど、他方で恐ろしくて見たくない気もするなあ」という含蓄ある言葉で締め括った。

   インタビュワー
主担当:谷川舜 副担当:金紀恵  

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