飯島裕一氏は1948年に、長野県上田で生まれた。幼少期から昆虫採集に親しみ、豊かな自然に囲まれて育つ。1966年、北海道大学水産学部に入学、魚類生態学を専攻する。高度経済成長期の中、次第に失われていく自然に危機感を抱き、その頃から自然環境問題を強く意識した。卒業後、紆余曲折を経て1972年に信濃毎日新聞社に入社。 入社して報道部に配属、三ヶ月後にはあさま山荘事件を取材した。サツ回りを通じて、人間関係の大切さや速報性の重要性など、新聞記者としての基礎を学んだ。その後、佐久支社にて市政を担当後、整理部に移った。現場志向の飯島氏には辛い日々だったが、一方で「新聞はみんなで作っている」事を強く感じた。 1985年、念願叶って文化部へ異動。一年目は芸能担当であったが、その時アルツハイマー病をテーマにした映画「花いちもんめ」通じて、医療・健康問題に強く関心を持つに至った。翌1986年、科学担当になり「老化を探る」という長期連載を開始、初めての全国取材に駆け回った。当時、社内唯一の科学担当で、「一点突破・全面展開」を意識した取材を心がけた。地方紙ということで、なかなか名刺が通じない事もあったが、中央のニュースも世界のニュースも地元のニュースとつなげて発信する姿勢を大事にしてきた。 1994年に編集委員となり、科学・医療を専門に長期連載を続ける。その多くが既に10冊以上書籍化され、「介護のあした」や「笑顔のままで:認知症・長寿社会」などの長期連載が新聞協会賞を受賞した。「僕は評論ではなくて、現場や人を直接訪ねてのルポに徹してきました。それが自分のスタイルでもあり、ささやかな誇りでもあります。」と氏は語った。 科学ジャーナリストは、「科学というアカデミズムの世界を一般読者にどう分かりやすく伝えるのかが大きな仕事」であると述べ、正確さと分かりやすさのせめぎ合いが永遠の課題であると言う。また、「科学技術がどんどん進歩する中で、事故の危険性や人体、自然環境、生活環境への悪影響が考えられる技術に対しては、読者にさまざまな情報を影響して論議の土俵をつくる」のも科学記者の仕事だと話した。そのためには、読者と科学の世界をきちんとつなぐだけでなく「科学と人類のあり方、これでいいのかどうかという目を持っていかなくてはならない」と原発報道の反省を込めて語った。さらに新聞記者のあり方について、新聞社という組織は、「取材経費を保障してくれる恵まれた環境でもあります。が、記者一人ひとりは、個を持った「個人商店」です。…結局は記者は一人ひとりの志と情熱に変えるのだと、あらためて思います」と語った。 インタビュワー主担当:山田友明、副担当:谷川舜