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シリーズ・科学ジャーナリストインタビュー2013 <第3回>馬場錬成氏

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 1940年に東京で生まれた馬場錬成氏は、父親の転勤に伴い仙台へ引越し、そこで戦争を体験した。10歳の時に埼玉県へ転居し中高時代を過ごした後、東京理科大学理学部に進学。当初は教師を志していたが、偶然目にした読売新聞社の求人ポスターに「何のために新聞社が…理系の所に出したんだろう」と不思議に思い、会社を訪問。大歓迎されて、気楽に入社試験を受け、合格。

 1965年に読売新聞社入社後の初仕事は、選挙予想の助手。理系出身の記者が少ない時代だったが、まず社会部に配属され事件記者として働き、三億円事件の現場には一番最初に駆けつけた。分子生物学の連載も手がけ、「取材をどういう風にやるのかというノウハウを完全に自分で身につけた。」76年に科学部に希望して異動。医学分野を担当した他、多摩川にサケを呼び戻す「カムバック・サーモン運動」を自ら率いたり、「恐竜記者」と呼ばれ展示会のキャプションも手がける等幅広く活躍した。86年に解説部に異動。88年に日本人で初めてソ連のバイコヌール宇宙基地の取材に成功した。ノーベル賞取材も精力的に行い、同年にノーベル賞候補者に北里、野口ら四名が挙がっていたというスクープ記事を発表した他、ノーベル賞フォーラムの開催にも携わった。94年に論説委員に就任した。この頃日本の伝統的なモノづくりのシステムがIT革命によって崩れていく事に危機感を覚え、知的財産権の重要性を認識。「知的財産権のことをやっている記者はほとんどいなかったから、新聞に一生懸命書いた。」2000年には『大丈夫か日本のもの作り』という著書を出版し反響を呼ぶ。同年に読売新聞社を定年退職。知的財産関連の講演や本の執筆を行う一方で、東京理科大学知財専門職大学院の新設に関わり、03年から七年間、同大学院の教授を務めた。

科学ジャーナリストの任務は「(科学の世界の最先端の)情報をなるべく早くにキャッチして、有用なものを選別した上で、世の中に提供していくこと」だと言う。そのためにも「着実に勉強して知識と経験を積み上げていく必要がある」と語った。

   インタビュワー
主担当:鵜川真衣 副担当:中山竜一  

ゼミジャーナル

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