1936年、東京都世田谷区にて越石建夫氏は生まれる。小学校三年時に山梨県に疎開し、終戦で東京に戻る。営業写真を営む両親の影響で東京写真大学(現・東京工芸大学)に入学し、コマーシャルフォトを志す。1956年に共同通信社に入社、本社写真部に所属する。入社後半年間は新人として現像液や定着液の準備をし、その後カメラを貰い現場へ。新人研修というものはなく、先輩の仕事を見て学んでいった。 名古屋支社での伊勢湾台風や、網走の日食、東京五輪等の取材を経験。その後、中国要人の取材をしたことがきっかけで中国参観団に参加する。福岡支社写真部、本社写真部のデスクを勤めた後に訪れた中国で毛沢東の死去に遭遇し、各地を取材する。そして1979年から二年と三ヶ月間、世界初の写真記者常駐特派員として北京で生活。使節や要人の取材、訪中している一般の日本人を主に取材した。また、「日常風景を撮るのが、私の一番の仕事」として、二週間に一回北京の写真グラフを本社に送っていた。 帰国後、北京滞在中の日々を記した著書『ドキュメント中国事情 北京の八〇〇日』を刊行。その後本社に戻り写真調査部長、写真部長、整理部長、秋田市局長などを歴任、編集委員で定年を迎える。1996年の長野五輪では組織委員会で写真グラフの編集をする。 日中が互いの国を理解するために、「庶民の目線で伝えるのが写真記者の役割」と語る。反日デモのような過激な行動がメディアに取り上げられがちだが、それはほんの一部の、生活に不満を持つ人達がやっていること。「政治家や一部の人の言動に惑わされずにやっていくしかない。」 「写真記者になろうと思って入社したわけではないけど、結果的には写真の取材が面白くなって、一生の仕事としていいなと思えるようになった」と話す越石氏に報道写真について尋ねたところ、芸術と写真の境目というのは難しいが、報道写真は「分かりやすい写真」でなければならないと言う。「報道写真はそれなりに人に何かを訴えなくては意味がない。綺麗だとか、いいセンスしているとか、そういうので解決出来るものではない」と語った。 インタビュワー主担当:朝倉舞、副担当:増山祐史