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シリーズ・海外特派員ジャーナリストインタビュー2014 <第7回>小島章伸氏

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 小島氏は1928年東京都生まれで、戦時中は海軍兵学校にて教育を受けた。その教えは小島氏の中で脈々と流れ、「第一にその時その場で全力投球。第二に上下左右に信頼関係。第三に難事に当たって率先垂範。これは海軍精神にもつながるもので、後にジャーナリスト生活に入ってからも私の行動原理となりました。」と語る。1945年8月6日の広島に原子爆弾が投下された日には、その広島でキノコ雲を目撃。戦後しばらくは目標を失った虚脱状態にあったが、早稲田大学政治経済学部に進学し、小松雅雄先生などの恩師たちに出会いジャーナリズムの道へ進むこととなった。

卒業後、1951年、日本経済新聞社に入社し、最初は大阪支社社会部に配属。以降大阪支社経済部、東京本社経済部を経て、1960年にニューヨーク特派員となる。ケネディのニューフロンティア政策やキューバ危機などを取材する。また、1963年度にはボーン・上田国際記者賞を受賞。1963年にブリュッセルへと派遣され、欧州統合を取材し、その基礎となった仏独の歴史的和解の話に感動し、アジアの地域主義を考える糸口を得る。

 1966年外報部長に就任し、1968年鮫島事件と酒井サイゴン特派員爆撃死事件が起こる。「同じ年に二回までも衝撃的事件に見舞われた痛恨の年でした。同時にそれはジャーナリストという仕事が時に重大な危険に晒され、死とも隣り合わせということを覚悟しなければならないものだということを痛感した年でもありました。」と語る。

 1975年に編集局長に就任、1978年には日本クラブ副理事長として鄧小平会見の代表質問者となり、「私自身は「自由な新聞記者として質問を自己規制すべきではない」と心に決めていた」ので、周囲の反対を押し返し、尖閣列島問題について質問、鄧小平氏の尖閣問題棚上げの発言を引き出す。大きな国際的反響を呼んだこの会見は「私のジャーナリスト人生の特別な思い出」となったと言う。その後日本短波放送や市況情報センター(現QUICK)の社長を経験。

 現在の日中問題に警鐘を鳴らし、「戦後70年。関係改善に向け、真の歴史的和解が出来るかどうか、不断の対話の努力が求められます。」と語った。

   インタビュワー
主担当:竹内琢也、副担当:高橋直弘  

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