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シリーズ・海外特派員ジャーナリストインタビュー2014 <第6回>永井浩氏

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 1941年に東京中野区に生まれる。戦時中に妹がジフテリアによって亡くなる。敗戦後は多彩な経歴を持つ「でもしか先生」たちの教育を受け、1961年に東京外語大学ロシア語学科に入学する。ロシアの文学や歴史を通じて「時代の主流の正統的な見方や考えだけが正しいわけではない」ことを学ぶ。

1965年に毎日新聞社に入社、浦和支局、次いで西部本社整理部で「非常に地味だけど骨のある仕事としていろいろ学びました」と言う。1972年、東京本社・ミ会部に異動、外信部に移り、1979年に平壌の世界卓球選手権大会を取材する。1980年からバンコク支局に四年間派遣され、他の特派員がベトナムの動向を追う中で、タイや東南アジアのNGOの活動に注目し、農村も歩き回って取材した。

 外信部編集委員に就任すると、1992年の「カンボジアの苦悩」や1995年の「ビルマからの手紙」の連載を企画する。連載や企画にあたって政治部記者との問題意識のすれ違いや外信部上司との衝突を経験する。退社後、1999年に神田外語大学教授に就任。ニュースサイト「日刊ベリタ」を2002年に立ち上げ、報道活動を再開する。

 国際報道において、東南アジアは「月見草」かもしれないが、日本の国際報道は「アメリカの眼鏡、プリズムを見た世界認識、それがイコール世界の現実みたいな錯覚」があって、「非常に視野狭窄」で多様な視点が不足していると永井氏は憂慮する。「冷戦が終わって、ソ連が崩壊してアメリカの一極支配が進むに従って、本来は、…冷戦時代のような、アメリカかソ連か、資本主義か自由主義か共産主義かという枠組が取っ払われて、自由に世界を見れるような時代になったはずなんだけど…。日本は逆に、これまで以上に、なんかもうアメリカに依存したニュース発信にのめり込んでいっている。」「日本人ジャーナリストの本当の意味での国際貢献」とは、ベトナム戦争報道で活躍した多くの日本人記者のように、アジア太平洋戦争で加害者であり被害者であったという事実を踏まえ、平和憲法を持つ国という自覚の上で、日本人のアイデンティティに根差した情報を発信することだと語る。そのような視座から『戦争報道論─平和をめざすメディアリテラシー』を2014年に発刊し、現在もジャーナリズムの在り方を考察している。

   インタビュワー
主担当:戸川旅人、副担当:横井克宏  

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