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シリーズ・海外特派員ジャーナリストインタビュー2014 <第5回>中島宏氏

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  1934年生まれの中島宏氏は、父の都合で長野から熊本へと移り、国民学校一期生として入学した年の12月に太平洋戦争がはじまった。「典型的な軍国少年」であったが、子供心ながらに日本がアメリカに勝つのは「話がうますぎるのでは」と思っていた。1944年長野県へ戻り、敗戦を塩尻村で迎えた。1947年新制中学へ一期生として入学。戦後のアメリカ式教育を受け、学校では大人顔負けの議論をし、家では乱読に耽った。

1954年東京外国語大学中国語科に入学、大学新聞の発行に携った。また共産中国に関心を持ち、中国研究所の公開講座へ通い、原水爆禁止大会に出席した中国代表団の通訳の末席にも加わった。

 1958年に共同通信社へ入社、二年間札幌支局と釧路支局に勤務。1960年本社外信部へ異動、中国と南アジアを担当し、中ソ論争、文革やベトナム戦争の報道を含めた外国通信の膨大な翻訳に毎日追われた。1969年香港支局長となり、中国側から出てくる人を取材し、中国ウォッチを続け、「ニクソンが進める対中接近の動きを、かなり正確にキャッチ」出来たと言う。1970年北京支局長として赴任、同年9月に北京支局は閉鎖されるが、名古屋での世界卓球選手権大会で「ピンポン外交」をいち早くスクープすることに成功。1972年再び北京支局長となり、ニクソン訪中や日中国交回復交渉を取材し、鄧小平の政界復活を世界にスクープした。またベトナム戦争終結直前のハノイも取材。1980年三度目の北京支局長となり、中国全土を回り、各地の実情と変化を見聞した。「私は中国の一級行政区を全部回りました。各地の体質の違いがある程度分かるような気がします」「総じて私の経験の範囲では、中国の潜在力の大きさと中国民族の有能さ、長年の歴史からくる賢さと狡猾さ、国内統一の難しさなどが理解できた。しかし、その後中国が現在のように世界第二位の経済大国になり、階層格差も環境汚染も世界でも最大級の国になるとは想像も出来なかった」と語った。また、シアヌーク元カンボジア国家元首のピョンヤン別邸でのインタビューも実現した。

 国際ジャーナリストに必要なのは、近代史の知識、英語をはじめとした語学だけでなく、「外国を見るには日本をよく知る事が大事」だと言う。「中国、韓国、北朝鮮など隣国との相互理解を促進する上で、ジャーナリストの役割は大きい」と述べ、「単に友好的な情報だけではなくて、双方の事情、考え方についての真実で公正、客観的な情報提供に努力」する必要があり、どちらからも嫌われる可能性があっても「それを敢えて冒して、双方の交流の橋渡しをして行く」のが国際派のジャーナリストの役割と語った。

   インタビュワー
主担当:呉星華、副担当:岸下ひとみ  

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