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シリーズ・海外特派員ジャーナリストインタビュー2014 <第2回>大野拓司氏

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 1948年、東京都で材木店の子として生まれる。早稲田実業高校を卒業後、実家を継ぐつもりであったが、家庭の事情や「これからは大学くらい出ていなくては」という社会の雰囲気もあり、慶應義塾大学法学部政治学科に進学。時代は高度経済成長期の終盤で「こんな景気いい時に就職して働くという気が起きなかった」と1970年に大学を卒業後、国立フィリピン大学大学院アジア研究センターに留学。学生時代に叔父の仕事の手伝いで、フィリピンからの青年団をエスコートしたのがきっかけだったという。当初一年ほどの滞在予定であったが、日本での就職難や現地生活への親しみなどから留学を続け、修士課程を修了。

 フィリピン滞在中に朝日新聞社の香港特派員と知り合い、アルバイトとして『朝日アジアレビュー』などに記事を執筆した。「新聞記者になりたいなんて考えたことがなかった」が香港特派員から紹介されて、「とにかく定職を」と大学院の博士課程を退学し、1977年朝日新聞社に入社した。新人社員として長野、松本、浦和支局での勤務、社会部勤務を経て1984年から外報部に所属。アフリカの飢餓問題を取材し「今、アフリカは「つ」の字形に飢えている」と指摘した『飢えるアフリカ』を外報部で執筆し、ベストセラーとなる。1986年から1989年までナイロビ支局に赴任。1990年に『朝日ジャーナル』編集部に異動し、冷戦末期の混乱する欧州を「移動特派員」として短期間取材。1991年から1994年までマニラ支局長を勤めた。

「記者として取材してきたのは冷戦の最後。それをアフリカ各地やソ連・東欧、そして東南アジアの最前線で取材してきた」大野氏は、冷戦も「アフリカや東南アジアで取材するのとでは、違う側面が見えてくる」と言い、日常的に権力と対峙する途上国のジャーナリストたちの不屈さには熱い気持ちが湧いてきたという。

1994年から1998年まで『アエラ』編集部で国際ニュースを担当し、北朝鮮の拉致問題で初めて実名報道を行った。庶民が気軽に情報に触れられる現代でこそ「何がニュースか、それを追い、掘り下げ、追求する」プロのジャーナリストの役割は重要であり、現場の記者は「どの立場に立つのか、どの視点から見るのか、それを絶えず自問すること」が必要だと語る。

   インタビュワー
主担当:板垣洋一、副担当:深谷朋宏  

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