1933年生まれの松尾文夫氏は、戦時中に体験したドーリットル爆撃と福井での空襲の経験によってアメリカに出会い、アメリカを追うジャーナリストの道を歩み始めた。 1952年学習院大学に入学、社会学の清水郁太郎やアメリカ研究のパイオニア高木八尺などの恩師に出会い、それがきっかけで1956年に共同通信社に入社。最初から特派員希望で、入社後四年間は大阪の社会部で「サツ回り」(警察署などを回り社会ニュースを集める記者の基本的教育課・・、殺人事件などを追う「事件記者」の仕事を行う。1960年に本社外信部に異動、三交替のシフト勤務で「全世界の鼓動が東京で一番先に伝わるというスリル感を味わった」と言う。1960年の大統領選では米国の短波放送を傍受し、ケネディとジョンソンの各州得票数を集計する担当で評価を受け、1964年留学経験のない特派員として初めてニューヨーク、そしてワシントンへ五年間派遣された。 「狂気の60年代」を取材し、国務省とホワイトハウスを一人で回り続ける中で、ニクソン勝利を予測し、更に共和党時代への転換を見聞。論文「ニクソンアメリカと中国―そのしたたかなアプローチ―」を1971年5月に『中央公論』に発表し、米中和解の可能性を指摘、その三ヶ月後にはキッシンジャーが北京を秘密訪問、1972年にはニクソンが訪中し、その正しさが証明された。その後『ニクソンのアメリカ』(1972年)、翻訳『ニクソン回顧録』(1980年)を出版。 松尾氏は恩師の一人である松本重治氏からの「ジャーナリストは、とにかく色々な人と会わなければならない。そのためには、学者以上に勉強して自分の意見を持たなければならない。ニュースソースとギブアンドテイクの関係にならなければ、いい記事は書けない」という助言を常に念頭に置き、積極的に様々な人に会って情報を集めてきたという。 1972年から1975年までバンコク支局長を務め、その間に後輩の石山幸基記者がカンボジア取材で犠牲者となったことについては「自責の念を現在も抱えています」と語る。1981年に再度ワシントン支局長を務め、84年からは経営者側に回り、AP通信とダウ・ジョーンズ社と組んで国際金融情報を発信する事業に従事した。 2002年に退職後、松尾文夫事務所を設立し、アメリカ専門家のジャーナリストとして再出発し、『銃を持つ民主主義』(2004年)を出版、日本エッセイストクラブ大賞を受賞。 「日米首脳による広島原爆記念碑とハワイ真珠湾の…アリゾナ記念館の相互訪問、相互献花というケジメの儀式を行うべきだ」と主張し、更にその日本の歴史的和解を中国、韓国にも広げる必要性を説き、そのために沖縄の可能性に注目している。 インタビュワー主担当:高橋直弘、副担当:増山祐史