平野裕氏は1931年、大阪市生まれ。山口旧制高校時代の学長排斥ストライキや敗戦間もない当時の革命の機運からロシアへ関心を抱き、1949年に東京外国語大学ロシア語学科入学。元毎日新聞社京城支局長であった父の跡を継ぎ、1953年に毎日新聞社に入社。 千葉支局に配属され、事件記者になる。裁判所、法務省を担当し、「裁判を見ている内に、物事には決して一つの見方ではなくて、検察、被告、弁護士と裁判官という色んな見方がある」と学んだ。本社社会部に六年いた後、1959年に外信部へ。ロシア問題を担当したが、フルブライト奨学金で米ノースウェスタン大学ジャーナリズム学部へ留学し、1965年にモスクワ特派員となる。平野氏は体制との接触を試み、「スパイへの協力を求められるような危ない橋も渡」りつつ取材した。チェコ事件最中の息子の夭折で一度帰国した後、1972年に再びモスクワ支局長となり、ブレジネフの緊張緩和外交を取材した。1976年外信部長、1980年には論説委員、英文毎日局長に就任。1982年には東京本社編集局長として組合と編集権を巡り闘争。1985年からは経営に携わり、主筆や専務取締役を務めた。外務省機密漏洩事件以降『毎日新聞』の経営が傾き、「屋上から飛び降りたいような気持ち」だったと語る。1990年に役員退任。 現在では、毎日新聞社顧問、毎友会(OB会)会長、日本翻訳家協会理事長などを務め、「未だに学び足りないような気がする」とロシア語の翻訳も進めている。 「新聞社は世帯が大きくなると、上に行く程皆が神輿で支えてくれているようで、面白くない。」と言う。また、「日本の地位が戦後低下した時代」は「70年の努力」ですでに過去になり、「外交舞台で日本が頼りにされることが非常に大きい。」だから遠慮せず、国際舞台で「日本が主体的になる記事」をもっと書くべきだと語った。 インタビュワー主担当:木下将太郎、副担当:板垣洋一