黒田勝弘氏は1941年に大阪に生まれ、戦時中は鹿児島に疎開、小学二年生で大阪に戻り焼け跡を遊び場に育った。四貫島小学校時代は、学校新聞の記者を務めるなど好奇心旺盛な子供だった。我孫子中学に進学し、鉄道郵便に携わった父の影響で地方紙に関心を持ち、題字をコレクションしていた。天王寺高校卒業後1960年に京都大学経済学部に入学。60年安保の盛りで、自由な学生生活を送る中でジャーナリストを志し、1964年に共同通信社に入社する。 ・・ミ後一年間の本社研修の後、広島支局で四年間を過ごした。「広島カープと原爆」の取材で通信社の記者として訓練を積むとともに、韓国人被爆者問題に出会い、後の韓国への関心へとつながっていった。1969年には東京本社社会部配属となり、公安部を担当。1972年にイスラエルのテルアビブ空港襲撃事件で初の海外取材を体験する。 韓国には1971年に初めて訪れ、日本での「ネクラな韓国イメージ」との違いに驚き、その修正を試みる。1977年に「アジア住み込み取材シリーズ」で一ヶ月間釜山に滞在の後、社費留学制度を立ち上げ1978年から一年間延世大学語学堂に語学留学をする。1980年の日本メディア追放後ソウル支局再開に貢献、同年正式にソウル特派員となる。1984年に東京本社外信部に移りデスクを務めるかたわら、1986年からは日韓両国で外国語放送を担当、第一次韓国ブームの功労者だと自負する。『産経』のソウル支局長への誘いを受け、1988年に『産経』に移籍。以来、肩書きを変えつつ継続して韓国に滞在し、現在に至る。 韓国特派員として重要なのは、過剰な贖罪史観を認識すること、そして単純単線的に批判するのではなく多角的に多様に把握し報道することであると語る。30年間単身生活することで「韓国に全身全霊で付き合ってきた」という黒田氏は、左派的な共同通信と右派的な『産経』の両方を経験してきたため、「僕が書くことが一番客観的だと冗談言ってる」と言いながら、韓国は「日本にとって特殊な国だから、その分だけ面白いし深く付き合えば味もあるし、(日本が)影響力を発揮できる所です。」と述べ、近年の韓国における日本人記者の存在感の低下を憂えた。 インタビュワー主担当:佐藤雪絵、副担当:板垣洋一