吉村久夫氏は1935年、佐賀県小城市に生まれる。 幼少期は徹底した軍国主義教育を受けた。 その後、関心が強かった歴史を勉強するため、早稲田大学第一文学部史学科に入学。 全学連の書記長や委員長が出るような「物凄い左翼学生の巣だった」クラスで学生運動にも参加した。 いくつか新聞社を受け、1958年に記者として日本経済新聞社に入った。 入社後、「経済の社会部みたいな所」である市場部に配属、次いで証券部でまず、水産食品や鉄鋼を担当した。 1965年に経済部に異動、財界を担当し、その取材の過程で記者クラブの特質を実感する。 1967年、当時の経済部長の発案で、資本自由化の実態を探る連載企画で欧米に派遣され、 現地の大企業相手にインタビューをして回った特集記事が連日、『日本経済新聞』の一面で扱われ好評を得た。 1969年からはニューヨーク特派員として、IMFのSDR創設を一面トップで書くなどの活躍。1ドル360円時代のアメリカの暮らしを家族と共に謳歌した。 1971年に帰国し、編集陣の強化のために『日経ビジネス』のデスクに就任。 1975年には『日経ビジネス』の編集長となり、編集長インタビューの企画を始めた。 その後、1979年からの『日経新聞』の産業部長を経て、1983年からは『日経産業新聞』の編集長を務める。 この二つの編集長という役割を担っていた時代が、最も楽しかったと振り返る。「『日経新聞』本紙の編集局長やるよりよっぽど面白い。 と言うのは、…ほとんど自分の思うことでやれるわけです。 一度だけやれなかったのは、…ロッキード事件で失脚した後、田中角栄を編集長インタビューに引っ張り出」すことだったと言う。 1987年からは日経マグロウヒル社の取締役、1994年に日経BPの副社長、1998年に同社社長に就任。 2002年には大阪経済大学と中国の清華大学の客員教授となり、国内外の学生にジャーナリズムを指導。 2005からは日経BPの特別参与に就任。その後も『進化する日本的経営』や『マスコミ生存の条件』などの著作を通し、自らの知見を世に発信している。 新聞は「スタッフ・ライター・システム」すなわち、「自前のスタッフで取材して自前の記者が書くという原則」を守ることで 「本当のオリジナリティーのある記事」を提供し、重要な役割を果たすことができる。 質の高い情報のために記者が学び続けなければならないと吉村氏は言う。 「実際自分の目で見て、味わって、そしてそこから真実の情報を取らないと、本当の事は書けない」。 中でも特に、社会の下部構造を規定している経済を学ぶ重要性があると語った。 インタビュワー主担当:新井広樹、副担当:鈴木翔太