1. トップページ
  2. シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第34回>尾林賢治氏

シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第34回>尾林賢治氏

width=

 尾林賢治氏は1939年山口県宇部市に生まれる。 広島県の緑井という村に疎開し原爆に遭う。 終戦後は宇部に帰り、統制経済の弊害を体験する。 小学三年生の時一家で父の実家のある山口県柳井市に戻る。
 祖父、叔父が早稲田卒である早稲田一家であったため、自然と早稲田大学政治経済学部を志し、1958年に入学。 人生の転機は早稲田大学生産研究所の所長を務めていた河辺すすむ(上に日)先生との出会いだった。 生産研でアルバイトとして働く中で途上国の経済発展の大切さ、プログラミング、英語力、速読等を学び、 グローバルな視点を持つ事の大切さを教えられ、そこでの仕事が面白くて修士課程に進んだ。
 1964年、日本経済新聞社に入社。 最初に委託研究生として日本経済研究センターに出向。 記者の「重装備化」の一環として学ぶ。1965年経済部に配属され、通産省記者クラブ詰めとして働く。 「血沸き肉躍る」報道現場では、「記者の仕事がこんなに楽しいものなのかと興奮していた」と語る。
 外務省霞記者クラブ担当を経て1968年に名古屋支社報道部に異動。 県政記者クラブと名古屋商工会議所記者クラブを担当し、地方行政の実態を学ぶ。 1970年に日経マグロウヒルの『日経ビジネス』編集部へ出向。 「足が遅い」雑誌メディアでは、先見性のある先取りした記事、独自の分析記事が評価されるので、 「内外のユニークな企業経営のケーススタディーを発掘するのが楽しみでした」と語る。
 十年間居た雑誌を去り、経済部へ戻り1980年特派員としてブリュッセルに駐在、EC、NATO、GATTなどの取材をする。
 1983年編集局情報統括本部速報部次長となり、オンラインニュースの開発に携わり、電子メディアの無限の発展性を知る。 1987年に科学技術部長、次いで産業部長に就任。 1990年欧州総局長となり、湾岸戦争報道を指揮した。 1992年日経BP社へ移り、日経BPアメリカ社・ヨーロッパ社社長となりシリコンバレーに支局を開設。 その後、日経事業出版社長(現日経HR)、QUICK監査役を務め、12年まで『早稲田ビジネススクールレビュー』編集主幹も務めた。
 デジタルメディアの進展で「第一次情報みたいなものは誰でも手に入る時代」になったが、 「本当のジャーナリストの役割は…ニュースの価値判断だとかニュースの分析、解析、解説、コメントです。」と尾林氏は述べ、 そういう報道では欧米メディアの方が優れており、日本のメディアも多国籍化を強化すればよいと語った。

   インタビュワー
主担当:西田寛、副担当:谷所日向子  

ゼミジャーナル

インタビュー調査

卒業論文題名