1931年に福島県相馬市で生まれた渡部行氏は、太平洋戦争に伴う学制改革の影響を受け、激動の学生生活を過ごす。 混乱の時代の中でも仲間と共に勉学に勤しみ、相馬高校卒業後、明治大学政治経済学部へ進学。 学生時代は学生運動の副委員長を務め、この経験がマスコミに興味を抱くきっかけとなった。 しかし志は叶わず、1953年にタイムレコーダーを手掛ける一流会社に一時入社するも 、新聞記者への夢を諦め切れず、基礎素材を取り上げる業界紙の産業新聞社へ転職。 入社後は十年近く、鉄鋼や非鉄金属の取材を担当し、三井や三菱といった財閥とも親しい関係を結ぶ。 「業界紙は担当が長く、業界に対する食い込み方も非常に強い。強いから、割合に大切にされる」と語る。 その後、1957年の『日本工業新聞』の復刊を受け、1963年に産経グループの日本工業新聞社へ異動。 編集局の重工業部で引き続き基礎素材産業や、エネルギーの取材を行う。 1969年に編集局第二工業部へ移り、1973年からは編集委員を務める。 1981年に第二工業部の部長に就任し、翌1982年に最初の著書『金(ゴールド)情報で経済を読む』を上梓。 その後も『プラチナの魅力』や『新世紀に飛翔する三菱マテリアル』、『「女川原発」地域とともに』など計20冊を執筆。 これも担当部門を65年もやり続け、人脈も途切らせないできたからだと渡部氏は言う。 1983年に産業第三部の部長に就任、1985年からは編集局論説委員を兼任。 また記者時代には、移動特派員として海外の鉱山や精錬所、原子力発電所を訪れ、取材旅行を50回行ったという。 1986年からは『日工マテリアル』の編集長を務めたが、廃刊の辛さを味わった。 また『エネルギー』では日本全国の原子力発電所を取材し、地域振興との関連をまとめた連載を組んだ。 「生まれ変わったら新聞記者をもう一回やりたい」と言った渡部氏だが、 自由化や規制緩和といったアメリカン・スタンダードの考え方が押し付けられた戦後日本の経済のあり方には疑問があり、 日本の良い部分も活かした「アメリカのやり方と足して二で割るぐらいが一番いいんじゃないか」と思うと述べた。 インタビュワー主担当:門野真子、副担当:鈴木翔太