岩佐豊氏は、1947年東京生まれ。 1966年に早稲田大学政治経済学部に入学。 学生運動が最も盛んだった時期だったが、自身はノンポリでベ平連止まりだったという。 上から命令されるのが嫌いだった岩佐氏は「できるだけ上からごちゃごちゃ言われない職業」として新聞社や出版社などの記者を考え、 ダイヤモンド社の知り合いの勧めもあり、1970年にダイヤモンド社に入社。 三日間の研修期間の後に雑誌『経済情報』の編集部に配属される。 先輩記者に付いて回り、「何度も何度も原稿書いて、一年二年と直されて、 で、だんだん直されるの癪に障るので、直されない原稿書こうと見様見真似で努力」した。という。 三年後『週刊ダイヤモンド』へ異動。 1973年からは大阪支社に移り、個別の企業を担当する会社記者として活躍する。 当時の取材の方針は、「表に出ていないけど何か問題だよね、何か変化が起きてるねというようなことを捉えて」いち早く書く事だったという。 1976年に東京本社に戻り、1983年から四年間『週刊ダイヤモンド』副編集長を務める。 金融記者のスカウト人事が原因で左遷され、経営企画室副部長を務めた後、1988年には情報局システム開発編集長に就任。 情報局では社内報などの受託誌を担当した。 1991年には『週刊ダイヤモンド』編集長に就任。 当時八万部程の発行部数だった『週刊ダイヤモンド』を、モデルチェンジによって12万部まで伸ばした。 「ダイヤモンド社の歴史の中でも一番強い副編集長達」を集め、半編集型雑誌に切り替えたことが成功の要因だったと言う。 「ダイヤモンド社は全て編集長に任せてくれるので良かった。 …メディアというのは、独裁者に任せないと駄目。…雑誌を変えたければ編集長を変えるしかない。…私も編集長時代は社長の意見を聞いた事はありません」。 1995年にダイヤモンド社取締役、1996年にはダイヤモンド社取締役社長に就任。 役員互選で「負けて」社長に決まったと言う。 社長時代に何か物事を決める時は「創業者だったらどうするだろう」という事を考え、 「雑誌で良い企業社会や産業社会、皆に幸福をもたらす経済作りというものを応援していこう」という思いを軸に、 個々の企業が集まれば全体として良い方向に行くという視点を基本とした。 経済ジャーナリズムは今、企業の利益は伸びるが個人の所得が伸びない時代において、 企業と個人のどちらの視点に立つのか選択を迫られているという。 「ジャーナリズムというのは最後は個人なんです。 だから『これは絶対に今言っておかなくてはならない』という思いを大切に」して踏ん張れる個人を 「『組織の中に何人抱えていられるか』という所がジャーナリズムの原点だろうと思います」と語った。 インタビュワー主担当:石坂友貴、副担当:則常麻里子