斎藤史郎氏は、1984年神奈川県に生まれる。 慶應義塾大学では当時の学生運動や全共闘運動に違和感を感じ、経済政策のゼミで大衆社会論を研究。 エーリッヒ・フロムやオルテガに傾倒し、世の中の空気に流される人間の弱さを強く意識するようになる。 1972年に日本経済新聞社に入社し、商品部に配属され、市場経済の基礎を学ぶ。 毎日神田の青果市場でキャベルや大根の値段を調べるので「だいこん記者」と呼ばれた。 1976年に経済部に異動、経済企画庁担当に。入社四年目にして「経済総理」福田赳夫の私邸に突撃、当時最高機密であった公定歩合政策を取材。 翌日の『日経』の一面で報道され、株式市場の株価が暴落。 「新しい動きを世の中から切り取って世の中に伝えて、それで大きな影響を及ぼ」す充実を感じたと言う。 大蔵省担当を経て、1984年に郵政省担当としてNTT初代社長人事を取材。 バブル時代の87年からは特派員としてニューヨークに。「ジャパンマネーが世界を席巻」する様子を目の当たりしながら、 主に米国の対日感情を取材。冷戦終焉を迎え、ガルブレイスやミルトン・フリードマンに取材し「マルキシズムはどこへ行く」という記事も書いた。 帰国後1990年に編集委員に就任。編集デスクとして「官僚」の連載を企画し、新聞協会賞を受賞した。 「政策決定の姿や事件をほぼ同時進行で追いかけ、官僚の動きを克明に描写し、それを通して本質を語るのが狙い」で、 それまでメディアに殆ど取り上げられてこなかった官僚というテーマに鋭く切り込み、反響を呼んだ。当初十回位の予定が最終的に99回まで連載された。 1997年に編集局経済部部長、2003年に編集局長となり、それ以後は取締役に就任し経営陣に加わる。 2009年から2011年まで日本記者クラブ理事長を務めた後、2013年に日本経済研究センターの研究主幹に就任。 「暴論?正論?を聞く」というインタビュー企画では「一見暴論と思える議論だが、実は正論ではないかと思われる主張」を紹介した。 2015年に会長に就任。 戦前の軍国主義や戦後のバブルなど「全会一致の大いなる誤算」は、 「報道機関は世の中の空気に取り込まれて時代と距離を置けなかった」ことに起因すると斎藤氏は語る。 ジャーナリストとして「時代を追い、時代と距離を置く」ことの難しさを今も感じていると言う。 インタビュワー主担当:若尾祐里花、副担当:山田日月