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シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第27回>堀川健次郎氏

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 堀川健次郎氏は、1942年に神奈川県横浜市で生まれる。 早稲田大学第一政治経済学部自治行政学科在学中に新聞記者を志し、新聞やジャーナリズムの研究を行った。
 1965年、高度経済成長時代の真っ只中に日本経済新聞社に入社。 整理部、婦人家庭部を経て記者としての基礎を学ぶ。 1971年に念願の経済部へ配属され、大蔵省、日銀、通産省、財界等を担当。 同年にニクソン・ショックを経験し、「世界の通貨当局や市場関係者は、仮に変動相場制に移行してもそれは暫定的な措置で、 短期間でまた固定相場制に戻れると思っていた」と当時の国際通貨体制の動乱について語る。 1977年1月から2月にかけて、連載「企業とは何か」で企業の社会的責任を追究し新聞協会賞を受賞。 1978年からは中国に十数回出張し、「中国 対外開放地帯を行く」という長期連載レポートにまとめた。
 その後、経済部次長、社長室部長、秘書室長を務める。 経済記者時代には日銀総裁人事の大誤報、秘書室長時代には都市銀行合併の大スクープを経験し、 「スクープは常にリスクが付きまとう。発表を待って書けば、何のリスクもないが、スクープにはならない」と当時の経験を語った。
 1991年、経済部長に就任。バブル経済の生成期から崩壊期までを経験し、公定歩合操作の報道に追われた。 1994年に大阪本社編集局長となり、翌年に阪神淡路大震災発生時の取材にあたる。 1996年取締役東京本社編集局長に就任。山一證券倒産のスクープを指揮し、部下の記者が新聞協会賞を受賞。 また、アジア首脳との連続単独会見の実現や、長期連載「2020年からの警鐘」の企画提案に携わった。
 1998年に常務取締役名古屋支社代表、2000年に常務取締役編集・出版担当を務める。 2002年に株式会社QUICK副社長に就任。その後、代表取締役社長、会長を経て、現在は特別顧問。
 金融情報ベンダー企業は、言論報道機関を標榜する新聞社と異なり、 顧客目線にならざるを得ないがこの違いには「慣れるのに苦労した」と言う。 『日経』が戦後果たしてきた役割について、堀川氏は「単なる経済紙ではなく、クオリティペーパーとしての地位を確立した。 …我々にはそういう自負がある」と語る一方、 それは過去の話で、今後のメディアについては、「キーワードは『テクノロジー』で、異業種の参入も含めて、 情報と技術を結びつけることに成功したところが次の時代のメディアの覇権を握る」と話した。

   インタビュワー
主担当:柴田翔子、副担当:石坂友貴  

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