1940年生まれの新井淳一氏は、敗戦間際の幼少時を下北半島で過ごす。機関銃の掃射から逃げていた事が最初の記憶だ。戦後は埼玉県に移り、以後の学生時代を過ごした。1960年に東京大学経済学部に進学。家庭教師のアルバイト先で、『毎日』幹部と交流を持ったのが、『日経』に入った大きなきっかけとなる。 1964年日経新聞に入社。当時新設の日本経済研究センター研修生となり、二年間、近代経済学の基礎を学んだ。記者として初めに日銀クラブの金融担当となる。慣れた頃に1968年の三菱・第一の銀行合併を抜かれる大失敗を経験。75年にはニューヨーク特派員となり、言葉の壁に苦労しながらも金融界を取材。帰国の1978年に日経マグロウヒル社に出向となり、『日経ビジネス』のデスク兼ライターとしてターゲットとなる読者を意識した記事作りを学んだ。 1982年『日経』の編集局に戻り、1989年経済部長、1990年編集局次長兼経済部長に就任。『日経』総合面と呼ばれる三面の改革に腕を振るう。特に各部の記者を束ねる三面総合版デスクが権限を持つ、完全横割り性を実施したことは『日経』の財産になっていると言う。1994年に編集局長となり、以降は経営陣として、社長室長を始め様々な担当を経験。特に印象に残る仕事は広告担当の時、『日経』がワールドカップサッカーのオフィシャル・メディア・サポーターとなる提案を、反対派を説得して進め、最終的には黒字を出したことである。 2008年副社長を退任、日本経済研究センターの会長に就任する。主として産官学の交流に取り組み、いくつかの企業参加型研究会を創設する。 経済ジャーナリズムのあり方について新井氏は、現在は昔に比べて「発信力」が足りないという。明解なビジョンを持って、「今からは『こうやるべきだ!』という人が経済ジャーナリストの中心にならないと、日本は変われないという感じはします」。 インタビュワー主担当:加藤優一、副担当:寺井健太