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シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第14回>磯野彰彦氏

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 磯野彰彦氏は1954年東京に生まれた。 70年安保を中学・高校生の時に経験する中で、権力を監視する存在としての新聞記者を志した。 1974年に早稲田大学政治経済学部政治学科に入学、英字紙『ワセダ・ガーディアン』の活動を中心に過ごし、 1978年に唯一受かった毎日新聞社へ入社。 初任地の福島支局では、男の子が交通事故後の植物人間状態から意識を回復したという、明るい特ダネ記事を書いたのが印象に残っている。
 1983年に東京本社社会部に異動し警察三方面と検察を担当。 二年後に指名されて「嫌だった」が経済部記者となり、兜クラブ、財研、重工クラブを担当。 1989年に大阪経済部に異動し、金融を担当する。1990年には東京に戻り、GATTウルグアイ・ラウンドの取材で苦労した。 1992年に交流人事で政治部に移り、宮沢総理の番記者などを務めた。1995年に組合の専従となり、一年間委員長を務めた。 その後、経済部と政治部のデスクになり、「自治はどこへ」などの企画記事をまとめた。 大阪経済部長を経た後、2004年に中部本社の事実上の局長に就任し、愛・地球博に向け活気づく名古屋へ赴任した。 環境破壊との批判があった万博開催の直前には、思い切って取材体制を変えたという。 当時の経済部デスクの提案から始まったブログ「上昇気流、なごや」は、当時珍しかった現役記者ブログの先駆けであった。
 2008年にデジタルメディア局長に就任、総合ニュースサイト「毎日jp」を運営した。 「紙もウェブも」という方針には反発もあったが、 「新聞を若い人たちが読まなくなってくる中で、ニュースサイトで『毎日新聞』に接する人たちが増えてくるだろう」と先を見据えて取り組んだという。 同年6月のWaiWai問題では不祥事の対応に追われた。 紙面審査委員会を二年務めた後、2011年に毎日新聞社を退社した。 難しい内容になりがちな経済記事は、記者自身がかみ砕いて記事を書く必要があると、自身への反省を込めて指摘する。 「読者の立場に立って記事を書く」ことが大切で、 「読者は何を知りたいのか、読者が物事を考える時に参考になる情報を伝えるのが記者の仕事だ」と強調した。


   インタビュワー
主担当:谷所日向子、副担当:寺井健太  

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