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シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第11回>牧野義司氏

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 牧野義司氏は1943年に大阪市に生まれる。 1962年に早稲田大学第一商学部に入学。1966年に早稲田大学大学院経済学研究科に進学する。 学生時代には、数回にわたり欧州や中東、アジアを歩き回る。 ベトナム滞在中の経験からベトナム戦争報道に興味を持ち、 「泥と炎のインドシナ」をはじめとした『毎日新聞』のリベラルな企画報道に惹かれ、1968年に大学院を卒業後、 毎日新聞社に入社した。
 新人研修を経て自ら山形支局への配属を希望し、コメの生産調整の現場取材を担当した。 1972年には、東京本社へ異動。地方版編集を一年間行い、1973年に念願の経済部へ配属された。 前年の西山事件で『毎日新聞』は打撃を受けていたが、 「取材力という点では、他社に負けたという感じはしなかった」と言う。 経済部では、最初に旧大蔵省を担当し、財政、銀行、証券行政、国際金融などのマクロ経済取材を担当する。 当時のキャップから「95%の国民の立場に立って、政官財一体の日本株式会社の重役たちの考えを安易に受け入れず批判的にモノを見ながら取材して報道する」という姿勢を学んだ。 経済部記者時代には、新日鉄の高炉集約でスクープ記事を書き、また1979年には、イランのパーレビ国王の出国亡命に関する元旦一面トップ記事で話題となった。
 牧野氏は、現行の記者クラブ制度に関し、「メディアは独自の調査報道などによって競争すべきなのに、記者は記者クラブでの発表依存症になっている」と指摘する。 また、1978年には『郵貯:世界最大の銀行』、1983年には『ノンバンクが銀行を追いつめる日』を出版。
 1988年にロイター通信に転職。日本語ニュースサービスの立ち上げや、外国メディアの記者クラブへの参入などに取り組んだ。 そこでグローバル・メディアの合理的な企業文化を学んだ。2002年にはロイター通信を退職し、フリーランスとなって生涯現役の経済ジャーナリストを目指す。 アジア開発銀行やアジア開発銀行研究所、日本政策金融公庫のメディアコンサルタントを務めながら、 時代の閉塞状況を刺激しようとメディアオフィス「時代刺激人」を立ち上げ、現場取材を基にジャーナリスト目線での情報発信を続ける。 牧野氏は、「ジャーナリストの仕事に関わった限りは、生涯現役のつもりで、年齢に関係なく問題意識旺盛に仕事を続けてほしい」と述べた。

   インタビュワー
主担当:内村美夢、副担当:藤本耕輔  

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