1939年に東京で生まれた佐瀬守良氏は、戦時中は群馬県の館林に疎開し空襲を逃れた。 戦争では、傷痍軍人の社会保障といった、戦争によってもたらされた後遺症にも目を向ける必要があると語る。 1959年に早稲田大学文学部に進学し社会学を四年間学んだ後、政治経済学部の政治学科で更に二年間学ぶ。 学生時代は社会学研究会というサークルで、元々は漁村であった京葉工業地帯に住む人達の暮らしが、 工業化によってどのように変化したのかを泊り込みで調査し、一つの冊子にまとめる活動を行った。 また政治に関して学生仲間と議論を交わし、安保闘争のデモにも何回か参加した。 1965年に中日新聞社へ入社し、『東京中日新聞』の校閲部で文章の基礎を身に付けた後、 文化部でレジャーと芸能の取材を担当した。 1967年に『中日新聞』の地方支局である長野県の飯田市局へ。 この時に地方記者というのは、「この地方に住む人々、コミュニティ、社会に生きる人の本当の日本人の生活に接するということ」だと身を以て感じる。 1970年に四日市支局へ移り、四日市公害裁判を担当する。 被告原告を含めてあらゆる人々を取材し、その全容を掴むとともに、その判決により、 国の産業政策や環境対策が転換し大きな影響を及ぼしたことを後に痛感する。 1973年に『東京新聞』の千葉支局に異動し、オイルショックの現場を取材。 1974年からは『東京新聞』の経済部へ移り、通産省、金融界、エネルギー業界を各々一年ずつ担当する。 1977年に「ニュースの追跡、話題の発掘」をキャッチフレーズとする特報部へ異動し、長い読み物記事を毎日書く慌しさに追われた。 1981年に経済部に戻り証券を担当した後、1983年にワシントン支局へ赴任し、日米経済摩擦問題やプラザ合意を取材する。 バブル経済が始まった1986年に経済部のデスクとなり、1993年に経済部長としてバブル崩壊期の報道にあたった。 1996年からアメリカ総局長を務め、99年に東京本社に戻り論説委員となり、2004年に退社。 経済ジャーナリストが果たすべき役割として、「経済ニュースをただ拾って報じていても、 視点が定まらないと読者には何が価値あるニュースか分からない。 その視点はやっぱり消費者と生活者。そこに役立つように報道しないといけない」と佐瀬氏は語った。 インタビュワー主担当:門野真子、副担当:武田有人