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シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第6回>三浦昭彦氏

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 三浦昭彦氏は、1942年に静岡市で生まれる。 戦争末期には母や姉と疎開していたが、静岡空襲で父を亡くす。 高校生時代に安保闘争へ参加し始め、1966年に入学した東京大学経済学部では、全学ストライキを指揮。 だが、「権力志向みたいなものが、自分には育っていない」と気付き、学生運動から離れた。
 1966年に朝日新聞社に入社、配属された奈良支局で、し尿処理汚職事件などを取材し、事件の裏に潜む経済社会的背景を探ることに魅せられる。 1968年新潟支局に異動、自主流通米問題に取り組み、当時『毎日新聞』の記者であった鳥越俊太郎と、農政記事で論戦を繰り広げた。 この間に、長期連載の「米」で編集局長賞を受ける。1970年に東京本社経済部に移り、最初は通産省を担当。 次いで証券、日銀を担当した後、変動相場制になってからは「為替のことは三浦に聞け」と言われるまでに勉強した。 1981年にアメリカ総局に派遣され、ワシントンで日米貿易摩擦を取材。
 1985年に東京本社経済部次長になり、プラザ合意の報道などに携わる。 1990年に西部本社の経済部部長、1992年に国際経済担当の論説委員、1995年に東京編集局次長、1997年に西部本社編集局長、1998年に東京本社編集局長、 2000年に西部本社社長と、東京と九州を行き来した。 その間、編集局のトップとして「くらし報道部」を創設し、組織と意識の改革を図った。 また、論説委員室の「戦後50年社説」では執筆者の一人として国際協力について論じた。 朝日新聞社の更なる発展に追力してきた。2007年に退社。
 三浦氏は「新聞社が取り組むのは、命と命の間である」と説く。 ジャーナリストは取材した材料を自分のイメージで組み上げ、一つのストーリーとして読者に提示する。 リポーターは、記者会見や役所の発表を記事方式に変換して流す」。 『朝日』の経済部は、市場経済だけでなく、人間をトータルに捉えようとするところに特徴があると論じ、 「「偏向」を口にする権力者は…報道規制を狙っているとしか思えない」と批判する。 結局、「記事の評価は読者の反応次第で決まるもの」であり、「読者の共感あってこその新聞です」と語った。

   インタビュワー
主担当:新井広樹、副担当:藤本耕輔  

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