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シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第4回>萩野博司氏

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1952年東京生まれの荻野博司氏は、都立立川高校では『立高新聞』という新聞部に所属していたが、 もとよりプロの新聞記者になろうという訳でもなく、1971年に一橋大学法学部に入学。 「一つくらいお試しで受けてみようかと考えて」受けた朝日新聞社に受かり、1975年に入社し、「結果としては記者になりました」。
 最初は静岡支局に三年間、福島支局に三年間配属される。 福島支局時代の1980年、カンボジアの難民を救う為に現地にバスを送った相馬郡飯館村の人々を取材。 『朝日ジャーナル』に「それでも難民救援はやめない」を掲載する。「やはり記者は、やる気になると出来るんだな、と痛感」した。
 1981年に東京本社経済部に異動。 約三年という異例の長い期間を証券担当として兜倶楽部に属した。 企業の決算発表などを通じ、日本の「経済の動き、鼓動みたいなのを知る事ができ」た。 その後の大阪本社では北浜を担当する。
 1986年にはニューヨーク支局初代経済部特派員になり、ウォール街の金融を担当。 入社時から地道に英語を勉強していたが、取材するうちに英語を話すのは苦ではなくなった。 また、知的所有権、製造物責任、環境問題、独占禁止法、国際税制という五つの課題を得た事が大きな収穫だった。 1987年のブラックマンデーでは支局に泊まり込みで仕事を続け、トップ記事を連発した。
 1989年に再び東京本社経済部に戻り、『日米経済摩擦最前線』(1990年)を刊行。 ガバナンス問題と環境問題を掘り下げ、1994年には日本コーポレートガバナンス・フォーラムを設立し、運営委員に就任。 1996年に論説委員となり、2007年には地球環境プロジェクトを発足させる。 2009年に鳩山内閣がCO2削減についてスピーチした時には大きな反響を呼んだ。2014年朝日新聞社退社。
 「記者は意外に命短し」と言う荻野氏によれば、記者には、何でも褒めるという第一段階、何でも批判する第二段階があり、 それを超えた第三段階に至る記者は少ないと言う。 「自分の負うリスクで人を評価」出来るようになって初めて一人前だというが、それは大変難しいと語った。


   インタビュワー
主担当:石坂友貴、副担当:太田裕  

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