佐々木坦氏は1937年、京都に生まれた。戦争の被害を殆ど受けなかった京都でも、戦後の価値観の大転換や吹き荒れる政治運動を目の当たりする中で、「多分にスリリングで危険の匂いはするが、面白い仕事ではないか」とジャーナリストを志したという。「意識的に外国語を習得しなければジャーナリストとしてやっていけないだろう」と、1956年に東京外国語大学フランス語学科に入学。勉学の傍らアジアからの研修生との交流に関わる中で、『北海道新聞』の論説委員を務めていた須田禎一に憧れ、1962年北海道新聞社に入社。ジャーナリストとしての基礎教育を受けるが、個人的事情から一年で退社。翌年東京大学に中途入学し、一方で、書評紙の『日本読書新聞』で吉本隆明、小田実、開高健といった錚々たる執筆陣と共に海外ニュースを執筆する仕事を担当した。 その後、須田禎一らの推薦を受けて1969年に共同通信社に入社。フランス語と英語に堪能、かつ海外事情に詳しい即戦力として採用され、通常の新人社員が受ける地方担当や記者訓練を受けることなく、直ぐに外信部に配属された。翌年にはバンコク特派員としてタイのみならず東南アジア一帯を飛び回り、バングラデシュの独立、ラオス・カンボジアでの戦闘などを取材。パリで開催された北ベトナムとアメリカの和平会談を他社に先駆けてスクープし、1973年からサイゴン支局長に就任。1975年のサイゴン陥落後も同地に残った数少ないジャーナリストとして、共産化するベトナムを目撃する。1976年にベトナムから国外退去を命じられて帰国。1978年からヨハネスブルク初代支局長に就任。南アフリカ初の有色人種記者としてローデシア内戦やアパルトヘイト問題などを1981年まで取材した。1984年から1985年までハノイ支局長、1986年から1990年までパリ支局長を務め、その後、国際局海外部長、国際局長などを歴任、役員となり、2000年に常務理事を退任。ハノイを除く全ての海外赴任に家族を同伴したのは、「現地人の生活に寄り添って、現地の人と同じように付き合い、暮らしてみることが大切」という信念からだ。海外特派員記者は短期滞在者が多く、長期にわたって「定点観測」する記者の数が少なすぎるという日本メディアの問題点を日本のサラリーマン記者制度の大きな壁だと指摘する。 インタビュワー主担当:板垣洋一、副担当:尾崎彩