中澤孝之氏は1932年、旧満州・大連市生まれ。終戦後長野県に引き揚げる。父の仕事の関係でロシア人と接することが多くロシア関係に興味を抱く。1957年に東京外国語大学ロシア語学科へ入学。国際問題に関心がありマスコミを志望、1961年に時事通信社へ就職した。 入社後は第一編集局経済部に配属され、化学業界の担当を命じられる。1965年2月にシンガポールへ赴任。まもなくクアラルンプール支局に移り一人支局で「のびのびと自分のペースで仕事をした。」1967年に経済部へ戻り鉄鋼業界を担当。 1968年モスクワ支局へ赴任。当時は送稿手段が電話と電報に限られていて苦労したが、各国の記者と協力し東欧取材もカバーした。日ソ・サケマス交渉やクレムリンの人事などが当時の重大ニュースだったが、締め切りのない通信社の苦労も味わった。「朝刊の締め切りが終わって新聞社の連中は「時事さんよろしく!」と帰っちゃってね。通信社の記者はそういうわけにはいかないから。」「これは通信社記者の一番の泣き所」だと言う。1978年には再びモスクワ支局長となり、CIAのエージェントと疑われたこともあったが、「当時のソ連はモスクワでもそうですし、キエフでも…ロシア人は非常に親日的なんです。」と語った。 1989から1991年まで外信部長を務めるが、ソ連解体の原因については現在も自分の宿題として追及している。1993年県立新潟女子短大教就任。2000年には長岡短大教授にも就いた。2011年には『ロシア革命で活躍したユダヤ人たち─帝政転覆の主役を演じた背景を探る』を出版。 「国際関係の記者としては歴史の伝達者であり、目撃者であり、立証人という…そういう心構えが必要です」と述べ、「何でも好奇心を持って突っ込んでいくという姿勢」と一方に先入観を持たないことが重要だと語った。 インタビュワー主担当:増山祐史、副担当:木下将太郎