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シリーズ・海外特派員ジャーナリストインタビュー2014 <第17回>金子敦郎氏

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 1935年生まれの金子敦郎氏は戦後、中学くらいからジャーナリストになりたいと思い、「ジャーナリズムには歴史が一番重要だ、歴史を知っている必要があるな」と感じて東京大学西洋史学科に入学し、1958年に卒業。戦後の「新たなマスメディアの争い」に魅力を感じて共同通信へ入社した。

最初は福岡支社社会部に配属され、警察を担当する「サツ回り記者」として、社会というのは「本当に恐ろしい世界」なのだと思った。三池炭鉱での争議を最後ま・ナ取材した後に東京本社の社会部で十年間仕事をした。

 沖縄取材をきっかけに軍事や国際政治に興味を持った金子氏は、その後1972年に外信部へ異動、1973年にはベトナム戦争中のサイゴン支局に配属される。初めての英語での仕事、赴任直前での前支局長と支局員の国外追放、肝炎治療による一時帰国など苦労の絶えない一年半だった。中でも、後輩記者である石山幸基氏と戦争カメラマンである一ノ瀬泰造氏をカンボジアでの取材で亡くしたことは「未だに背負っている」と語る。

その後1977年からはアメリカでワシントン特派員を務め、日本での外信部デスクを経た後、1984年にはワシントン支局長に就任した。ベトナム戦争の取材後に、カーター大統領からレーガン大統領へというアメリカ政治のターニングポイントの報道にあたった。中でも、情報公開法に基づいて得た金大中事件に関する資料から、KCIAのスキャンダルをスクープし、「『朝日』、『毎日』、『読売』から日本中のほとんどの新聞の一面トップないし準じる扱い」の記事となった。

1987年から編集局次長、1990年から国際局長を務め、「APとかロイターなどのニュースは、欧米には強いけどやっぱり欧米の視点」だから「情報を独占させてはいけない」という思いで対抗する情報ネットワークを築き国際通信社に向かって尽力した。日本のアジア報道は欧米メディアに比べて量も少なく、知りたい情報が伝えられてないと言う。ライフワークとして取り組んでいる核問題についても「本当のことが全く報道されてないのです」と述べた。

   インタビュワー
主担当:小林涼太、副担当:朝倉舞  

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