1949年生まれの下川正晴氏は、高校時代までを故郷・鹿児島で過ごす。小学生時代から新聞記者という職業に関心を持っていたと言う。その後、大学受験の勉強をしていた頃にラジオ大阪を聞いていたことをきっかけに大阪大学を目指すようになり、1968年に大阪大学法学部に入学する。大学時代の大阪は被差別部落問題や在日朝鮮人問題が活発に議論され、下川氏も運動に積極的に参加する中で「コリア」に対する関心を深めてゆき、1973年には毎日新聞社に入社する・B 入社後は山口支局、佐世保支局、西部本社報道部と配属される中で、「このままだと、田舎の新聞記者で終わってしまう」と感じ、一念発起し韓国に語学留学することを決意する。1985年から一年間、延世大学韓国語語学堂で韓国語を学び、86年のアジア大会記者、87年民主化期の臨時特派員、88年のソウルオリンピック記者を経て、1989年に正式にソウル特派員となる。1992年から1994年までソウル支局長を務めた後帰国し、外信部に移る。そんな中で日本とコリアの二国間関係では視野狭窄だと感じた下川氏は「三角測量が必要だ」と感じて第三国への派遣を希望し、1995年にバンコク支局長となる。しかし心筋梗塞で倒れ帰国。帰国後は編集委員を務める傍ら「キャンパる」で大学生の指導に当たる。「キャンパる」を通じ、教えることが好きだということに気付き、これを契機に「若い人たちと一緒に仕事をする大学の先生になろう」と考えた下川氏は、「どうせなら韓国で」と、2004年に毎日新聞社を退社し、韓国外国語大学言論情報学部客員教授に就任する。しかし、弟の死を機に2006年に帰国、2007年に大分県立芸術短期大学の教授に就任し、現在に至る。 民主化期を含めた韓国の激動の時代を直視してきた下川氏は、メディアのあるべき姿を「メディアフレームに陥らない」ことだと指摘する。慰安婦報道が問題になる昨今の日本メディアを「三角測量」で厳しく観察する視線は、鋭かった。 インタビュワー主担当:佐藤雪絵、副担当:戸川旅人