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シリーズ・海外特派員ジャーナリストインタビュー2014 <第14回>山崎真二氏

 山崎真二氏は1946年に東京都で生まれた。戦後の徹底した民主主義的教育を受ける。幼少期からインドに対する興味があり、早くから外国に行きたいという気持ちで、外国語を徹底的に学ぶため、東京外国語大学インド・パーキスターン学科へと入学する。しかし、全共闘の時代で学生運動のため学校が閉鎖され、その間、新宿に通って反権力的文化に浸った。

自らの「完全にはのめり込まない」客観的な性格が報道業界に向いていると考え、1971年に時事通信社に入社する。政治部に配属となり、総理大臣の動向取材などを経験。

 1973年、新設の外国経済部への転属となる。外国経済部へ異動。次いで外信部へと移り、1976年に南米ペルーのリマへと特派員として派遣され、スペイン語と通信手段に苦労しながら軍事政権下を取材した。「軍事政権下では、人権保障というのは停止されてしまうんです…言論の自由は当然無いわけです。取材の自由も無い。…例えば…夜間外出禁止令というのが出されるわけです。…すると、何か夜起きた時に取材できないです。出ると撃たれちゃいます。」リマでは南米のニュースを幅広くカバーし、フォークランド紛争も取材した。

 1985年、インディラ・ガンジー暗殺を契機に再開が決まったニューデリー支局に志願し赴任。多種多様なインド・メディアを活用し、アフガニスタンやスリランカにも出張取材し、ソ連軍のアフガニスタン撤退を報道、大韓航空機爆破事件ではバーレーン空港に飛んで取材した。

 1989年に外信部次長に就任。「ニュースの最前線の指揮官」として各地の特派員と連絡を取って指示し、また派遣する特派員の人選も行った。1994年ニューヨーク支局長、1996年ニューヨーク総局次長、1998年外信部長、2000年編集局総務兼解説委員を歴任し、2006年退社。

 「ファクトを、事実を正確に伝える事」が自身のモットーであり、通信社の特性だと語る。一方で、「純粋な意味での客観報道はあり得ないと思います」と述べ、客観報道の難しさについても強調した。また、日本のアジア報道については「相当長期にわたってアジアを専門に取材し、報道する、そういう記者を育てていく」必要があると話した。

   インタビュワー
主担当:横井克宏、副担当:竹内琢也  

ゼミジャーナル

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