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シリーズ・海外特派員ジャーナリストインタビュー2014 <第13回>近藤龍夫氏

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  1934年生まれの近藤龍夫氏は、戦時中に疎開を経験、終戦は兵庫県の丹波で迎えた。中学生の頃から新聞を読むことが好きで、高校の頃には社会科の先生を困らせるような質問をしばしばするほど国際問題や政治に興味を持つ少年だった。1954年に大阪外国語大学中国語科に進学し、就職が決まっていたにもかかわらず、大学卒業後、台湾大学歴史研究所(修士課程)へ奨学生として留学する。「台湾時代は私にとって貴重な時間だった」と当時を振り返る。

帰国後の1963年に、『朝日新聞』に入社。富山支局を皮切りに、大津支局、大阪本社社会部を経て、1967年東京本社外報部へ移った。外報部内勤当時、1971年には中国の国連加盟をニューヨークで取材。同年名古屋で行われた世界卓球選手権大会の際に知り合った中国人の人脈を使って、中国代表団に食い込む報道をした。

 1973年に香港支局長となり、中国報道に携わるとともに、東南アジア各地への応援取材を重ね、1974年には、フィリピン・ルバング島のジャングルに潜んでいた小野田寛郎陸軍少尉の救出作戦を取材。75年にはベトナム戦争末期をサイゴンで目撃した。1978年北京支局長となり、日中平和友好条約締結交渉を取材。78年秋の毛沢東批判の壁新聞報道をはじめ、鄧小平時代の始まりとなる「改革開放政策」の行方をきめ細かく追った。二度に亘る北京支局長の勤務後、帰国して、昭和最後の外報部長を務めた。名古屋と東京の編集局次長を経て、1993年に『英文朝日』の社長に就任。定年退職後、敬愛大学国際学部教授、千葉敬愛学園理事長を務めた。

 近代において「同文同種という言葉が日中関係を誤った方向に進めた一つの要因ではないか」と指摘し、「同じ漢字を使っているけれど、ものの考え方は違うのだという事を基本」に、現代中国人の複雑な対日感情の構造を理解した上で、客観的に実情をとらえる記事を書くことが大事で、「ジャーナリストの仕事は相手を知り自分たちを知り、また自分たちを知ってもらうための橋渡し役になり得る」重要な役割を担っていると語った。

   インタビュワー
主担当:呉星華、副担当:雨宮信太  

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